鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

大いなる誤解か、ニッポンの危機か
2017/06/21

 ヨーロッパにおける極右政党の台頭、アメリカのトランプ大統領の誕生などをめぐって、さまざまな論評がなされているが、共通して指摘されているのは、それまでにその国の国民に流れていた心理的倫理観が失われているというものである。
歴史をみればどの国にも特有の倫理観が存在した。その倫理観が時として他国との摩擦を和らげ、国際的に安定を保つ要にもなってきた。その要が失われれば、国際関係は緊張を余儀なくされる。心理的倫理観が失われてしまった国際関係の中では、経済的には貿易摩擦を生じさせ、政治的には戦争の可能性を強めることにつながる。

 「日本はすごい‼」。自分はテレビ人間かも知れないと思うほど、よくテレビを見ているが、最近は「ニッポン礼賛」の番組やニュースがやたらと多い。
外国人が日本を褒めちぎるか、日本人が日本を誇っている番組だ。
曰く、四季折々の美しい風景、清潔な街、繊細な伝統工芸、時刻に正確な交通機関、サービス業関係者の「おもてなし」、日本人の親切さ、心にしみる「侘び」と「寂び」……。

 人は自分にとって「耳障り」の良い話か、そうでないかで気分を変化させる。日本礼賛を聞けば心地いい気分になるし、批判を聞けば気分を悪くしてしまう。
早稲田大学の長谷部教授と法政大学の杉田教授は、対談で次のようなことを述べている。

一般に、「ある社会集団・民族を支配する倫理的な心的態度」をエートスと呼んでいるが、杉田教授は、
【エートスは大事ですが、その基盤がどこにあるかです。かつての村落共同体が産業化で破壊された後、企業がアイデンティティーのよりどころとなっていた面がありますが、日本式雇用も壊され、どこにも居場所を見つけられない。国民的なアイデンティティーだけがせり出しています。日本はすごいと吹聴するテレビ番組を見て悦に入ったり、ネット上に差別的な書き込みをして留飲を下げたりしている。少数派を差別することで多数派の側につくという競争が行われている。それしか自らを支えるものがないからです。そういう状況に付け込む形で、我こそは真の国民の代表であると幻想をばらまくポピュリズム(大衆迎合)も出てくるのでは】と指摘する。

 そうしたことを考えれば、礼賛されて悦に入っているだけではダメなのだ。

 そこで少しばかり冷静になって日本の現状を見つめてみると、政治の世界では「とんでもないこと」が起きているのに気がつく。森友学園事件をめぐって、小学生の道徳について教育勅語が話題になっている。いいこと(道徳や徳目)が書いてあるのだから、教育勅語を教材に使うことは差し支えないということらしい。

 もともと教育勅語は、天皇と国家への服従を説き、国民を戦争へと駆り立てる役割を果たしたもので、当時の国民には批判の自由はなかった。中身に目を移すと、「親孝行、夫婦仲良く、友達を大切に」など、当たり前のことが書いてあるので、「教育勅語が説く徳目を肯定的にとらえるべきだ」という主張も自民党などにある。

 だが教育勅語の本質は、こうした徳目を実行することで「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以(もっ)て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」(いざという時には一身を捧げて皇室国家のために尽くせ)と国民に求めたことにある。

 戦前の修身の本「ヨイ、コドモ」には、19章では「日本の国」と題して、次の文章が記されている(カタカナを平仮名にし、現代文に修正。ならびに挿絵等による段落も修正。()内は筆者の注)。

【明るいたのしい春が来ました。日本は、春夏秋冬のながめの美しい国です。
山や川や海のきれいな国です。このよい国に、私たちは生まれました。
おとうさんも、おかあさんも、この国にお生まれになりました。
おじいさんも、おばあさんも、この国にお生まれになりました。
日本よい国、きよい国。
世界に一つの神の国。
日本よい国、強い国。
世界にかがやくえらい国。】

そして20章は「ヨイ、コドモ」と題して
【私たちは、今度みんなそろって、三年生になります。
私たちは、この学校へはいってから、よくべんきょうをしました。からだをじょうぶにしました。
先生やおとうさん、おかあさんのいいつけをよく守って、よい子どもになろうと心がけてきました。私たちは、先生からいろいろなお話を聞きました。
天皇陛下のありがたいことがわかりました。
天皇陛下をいただく日本の国は、世界中で一番とうとい(尊い)国であることを知りました。
私たちは、天皇陛下にちゅうぎ(忠義)をつくし、このよい国を、みんなでいっそうよい国にしなければならないと思います。
今日は、学校のしゅうぎょうしき(終業式)でした。しょうしょ(証書)をいただいて、うちへかえりました。
おとうさん、おかあさんは、たいそうお喜びになって、「これからも、先生の教えを守って、いっそうよい子どもにおなりなさい。」とおっしゃいました。】とある。

 よく考えてみれば、教育勅語を礼賛する人々の「教育勅語の一部に記されている徳目・道徳の項目」は、先に述べた「ニッポンって素晴らしい」という数々の番組やニュースの中で私たちの生活にしみついているし、いまさら徳目とか道徳を学ぶのに「教育勅語」から得る必要はない。他の教育や日常の生活の中で私たちの生活規範に取り入れられている。にもかかわらず改めて「教育勅語」の必要性を主張する真意は、国民の心情を大いに誤解しているか、そうでなければ「教育勅語」全体に流れるある思想を採用する目的以外に考えられない。

その思想とは、「教育勅語」そのものの中に明らかにされている。教育勅語は、【家族国家観による忠君愛国主義と儒教的道徳であり、教育の根本は皇祖皇宗(天皇の祖先と歴代の天皇)の遺訓とされた。忠君愛国を国民道徳として強調しており、学校教育で国民に強制され、天皇制の精神的・道徳的支柱となった。】(ウィキペディア)。

そして本文では、
【もし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。】とある。
この教育勅語に付随する教科書「ヨイ、コドモ」でも、前述した19章、20章の前に17章があり、【天皇陛下がお治めになるわが日本は、世界中で一番立派な国です。(中略)私たちの祖先は、代々の天皇に、忠義を尽くしました。私たちも、みんな天皇陛下に忠義を尽くさなければなりません】と述べている。

 教育勅語でいう徳目とか道徳は、あくまで明治天皇が国民に守るべきものとして示したもので、その前提として「いざという時には命をかけて『皇運』(天皇・皇室の運)に尽くせ」という論理になっているのである。

 「教育勅語にはいいことも書いてある」と主張する人々は、いったい日本をどこに導こうとしているのだろうか。
日本礼賛の心地よい話題に悦に入って幻想を抱いているうちに、とんでもない社会に追い込まれているような気がするのだが。