人間には元来他人に知られたくない秘密があるものだが、同時に他人の秘密を知りたいというのぞき見趣味もあるようだ。従来の雑誌のイメージを覆す写真のみの情報媒体が売れるのも、この人間ののぞき見趣味に負っている。もちろん簡潔で適当な長さの文章と写真という組み合わせが、とくに女性の購読者を開拓し、売れ行き好調の原因と言われているが、文章に写真が組み合わさると、より一層真実味が帯びてくることは間違いない。だから、編集者の意図で、虚偽の情報を作ることも可能となる。
時折、見出しの誘惑に負けて買い求め、読み終わってみると、何も知る必要もなかった芸能人の私生活を知って、のぞき見趣味に駆られた自分に嫌悪を感ずることもある。
よく考えてみると、こうした他人の私生活をのぞく自由とは、一体どのくらいまで許されるのか疑問に思えて仕方がない。社会にはさまざまな法律、規則、道徳があってはじめて秩序が保たれている。この秩序をめぐって、思想の自由とか、表現の自由が話題を提供するのだが、もし仮にこの社会が一切の法律はもとより規制も秩序もない、なにごとも自由だということになれば、どんな社会になるのだろうか。法律も常識も秩序もない、誰もが好き勝手に何をしても良い社会とは。それは暴力と心に闇を持った人が支配する無法者の社会になることは明らかである。人を殺めることも、怪我をさせることも、物を奪うことも、何をしても自由ということになれば、暴力をふるえる人、他人の心を慮る(おもんばかる)ことさえしない心に闇を抱える人が支配する社会になる。力の弱い人や少しでも他人を慮る人は、ひたすらジッとしているしかない。思いのままの自由を謳歌するのは力の強い者であって、大多数の力の弱い国民、他人を慮れる国民は、暴力に屈しひたすら怖れ慄(おのの)くのみで不自由を強いられる。とすれば、法律や秩序や常識、道徳などは、力の弱い大多数の国民に「自由」を保障し、暴力や心に闇を抱える人を不自由にするものだとはいえないだろうか。
ある植物学者の言を借りれば、植物の生態学ともいうべき現象としてこんな話をしている。熱帯雨林の大木の周辺は、太陽の光も届かず、ジメジメとした地面に小さな草木や雑草で覆われている。あるとき、寿命を迎えて大木が朽ちると、周辺に明るい太陽の光がふり注ぎ、小さな木も雑草も新たな息吹を見せ始める。大木の芽もやがて成長し、再び周囲を暗黒の世界に戻す。人の手も借りずにこれを繰り返すのが、熱帯雨林の生態なのだそうだ。熱帯雨林の秩序はこうして保たれる。
またこんな話もある。今ここに一本の大木がある。周囲には雑草が土中の養分を吸収し、生い茂っている。ところが生え放題の雑草も、ある瞬間からその繁殖をとめるという。それは、これ以上雑草が増えると、土中の養分が大木にまでいかなくなる。つまり、大木の生命を脅かす寸前で、雑草の繁殖は終わるのである。これが自然界の摂理ということになるのだが、この大木を「自由な制度」に置き換えてみると良く分かる。自由という制度は、周囲の雑草と同じように、さまざまな自由の存在を認めるが、自由を認めすぎたために大木である自由という制度そのものを朽ち枯らすことは許さないということである。
大木にたとえた現代社会の自由と、雑草にたとえた周辺に存在する自由は、時代の進歩や文明の発達、社会における人権意識の変化によって、その種類も増やし、内容も進化させてきた。言わずもがなだが、1700年代の産業革命は雇用労働者を大量に発生させた。そして、旧態然たる使用者が、市民社会の三大原則である「契約自由の原則」、「私有財産の保障」、「過失責任の原則」を悪用したことによって、使用者の過酷な労働条件に甘んじざるを得えなかった雇用労働者が、社会常識である世論の後押しもあって、今日の労働法の礎を築き、また、労働組合結成の自由を近代社会の証しにまで高めた。この労働組合結成の自由も、近代社会が保障している自由という大木のもとで存在しているのである。だから広義でいう「結社の自由」も、大木である社会の根幹としての自由を支えるものでなくてはならない。結社の自由が大木を朽ちさせてはいけないのである。労働組合の活動も同様に、いくら自由だからといって、何をしてもいいというわけにはいかない。組合活動は自由だからといって、組合員が全体で決定した内容に「従わない自由」はないのである(決定した内容が憲法で定められている自由を侵害するような場合は別だが)。ストライキを決めたにも拘らず、「ストライキに参加しない自由」は認められないのである。これらは、会社組織でも同じで、就業規則で酒気を帯びて出社することを禁止しているのも、酔っぱらっていては従業員として働く義務を全うできないし、他の社員へも悪影響を与え、本来の会社組織を否定することになるからである。このように、労働組合も会社組織も、本来、組織として持っている目的をも否定するような自由までは認めないということなのである。
「自由」とは「自由を否定する自由」まで認めることはできない所以(ゆえん)だ。また思想の自由があるからといって、殺人を犯す過激派の暴力まで自由であったとしたら、あるいは、その集団が政治の世界で権力を握れば他の思想の存在を許さない団体であれば、それを規制しなければ、現在の自由な社会は保障されないということである。回りくどくなるが、「自由」とは、「自由を否定する自由」までは認めないのである。オウム真理教に規制が加えられるのも、信者がいかに「信教の自由」を掲げようが、信教の自由があるからといって認めてしまえば、再びサリン事件を繰り返す怖れがあるからである。テロを排除するのも同じ理由だ。
旧西ドイツははっきりしている。東西冷戦のさなかという事情があったとはいえ、旧西ドイツは憲法である「ドイツ連邦共和国基本法」の第21条(2)で、「政党で、その目的または党員の行為が自由な民主的基本秩序を侵害もしくは除去し、または、ドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指すものは、違憲である。違憲の問題については、連邦憲法裁判所がこれを決定する」と規定している。
それに基づいて連邦憲法裁判所は1956年にドイツ共産党(KPD)を違憲政党と宣告した。当時の西ドイツでは、「ドイツ共産党の目的、または党員の行為が、自由な民主的基本秩
序を侵害もしくは除去し、または、ドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指すもの」と判断したのである。ちなみに、1969年に結党した新しいドイツ共産党(DKP)は違憲宣告を免れる体裁を整えていると言われている。
また、行き過ぎたポルノによる性風俗の乱れが、社会の常識や道徳まで地に貶(おとしめ)るとすれば、それは規制されるべきであって、それを表現の自由を侵すと非難するのは筋違いなのである。
そうはいっても当然の規制なのか、あるいは表現の自由や結社の自由の侵害なのか、その境界はきわめて難しく判然としないために両者の論争は果てしなく続けられ、最後は裁判所の判断に委ねられることが多い。
日本の労働組合はその歴史の中で、共産党による組合支配に悩まされてきた。労働組合を、党のいう革命の先頭に立つ団体と決めつけ、党の支配下に置こうとする人たちと、労働組合は、組合員の自主的な考え方で運営すべきだと考える人々との間で対立がつづいたのである。これは民主化運動と呼ばれたもので、こうした先輩の皆さんの努力で、今日、私たちは自由な組合運動に取り組めているのである。
そんな中で、私たちが興味本位に新聞や雑誌で暴かれる他人の私生活を喜んでいるうちに、いつしか、劣情に浸って人間の品位を落とすことによって法律による規制が次から次へと加えられ、自らを、基本的な自由さえも規制される取り返しのつかない社会を作ってしまう共犯者になってしまうことも起こり得る。だからこそ、ときには労働組合の歴史を振り返り、先輩の努力に思いを馳せることも意味があると思えるのだが…。



