古代中国では「細い竹で卦(け)をたてて占いをする」ことを占筮(せんぜい)といい、これについて述べている書は、儒教でいう五経(注①)の筆頭に上げられている「易経(えききょう)」である。
この「易経」の中に、「君子豹変(くんしひょうへん)、小人革面(しょうじんかくめん)」という言葉があるのは有名だが、この意は「立派な人物(君子)は、自分が誤っていると分かれば、豹の皮の斑点が黒と黄色ではっきりしているように、心を入れかえ、行動にも変化が見られるようになる。
反対に、つまらない人間(小人)の場合は、表面上は変えたように見えても、内容はまったく変わっていない」となる。
この言葉はどういうケースで使えばいいのか。現代社会では「誤りに気づいたら、素早く今までの意見を改めたり、行動を転換してもよい」という場合に使われている。
ところが人間とは勝手なもので、「考え方や行動にとらわれることなく、都合のいいように主義・主張を変えること(変節)」に使う人もいる。
だから「君子が豹変」している様は日常でもよくみられるのだが、中身はまったく違うことに注意しておかなければならない。
いい意味では「反省して正しい方向へ変更する」場合にも使われるし、反対に、「節操もなく、その場その場で都合よく使い分ける際にも使われる」ご都合主義にもなるので、世の中の出来事、とくにその人が以前と違う主張をした場合には、よい意味での「豹変」なのか、悪い意味での「豹変」なのかを見分けないと体よく騙されてしまう。
とくに、政治の世界では、「豹変」した側と同じ立場だと「豹変」を支持し、反対の立場だと「豹変」を非難することが多い。具体的な例をあげてみよう。
以前にも書いたが、政治の世界では与党とでいるのか野党でいるのかによって主張は違ってくる。なぜなら、野党時代には政権党とは違う政策を立てることは当然だから、そうした政策を訴えて政権党になったとしても、国際環境や社会状況が激変する中で、「実行不可能」であれば、すばやく見直しするのは当然と考えている。
「消費税の増税はしない」政策も、EU諸国を襲っている危機を見れば、EU諸国以上に多額の借金を背負っている日本の財政(ギリシャやイタリアやスペインをはるかに超えている日本国の借金)を改善しないでいれば、次代を担う若い世代の人々にツケを回すことになる。
だからツケをまわして知らん顔をしているわけにはいかないと思うし、財政の悪化はさらに将来の年金の給付にとどまらず、今も恩恵を受けている年金の受給者自身(私もそうだが)に対しても、あるいは大半を税金でまかなっている医療費の1割~3割負担で恩恵を受けている人に対しても、このままでは国の財政が立ち行かなくなるから、若い人々をさらにひどい状況に置くことになる。
この現実を直視すれば「君子は豹変」しなければならない。
しかし、その政権に反対の立場からみれば、マニュフェストは国民との約束だから、「豹変」してはならないということになる。
2012年の7月に民主党を除名された小沢氏の主張を振り返れば、これも以前にも書いたが【小沢氏は、1993年~94年自著の「日本改造計画」の中で、「消費税率(当時3%)を段階的に10%に引き上げるべきだ。」と述べているし、細川政権下では国民福祉税7%を主張した。1995年の新進党の党首選挙に出馬した時には、「10年後に10%にすべき」と述べながら、1996年衆議院選挙への党の公約では「10%アップを削除して引上げには反対」と記すこともいとわない。
1996年(新進党党首時代)に出版された自著「語る」では、「僕は、消費税(率)を結果として10%にしろという方だから、あげること自体には反対でない」、所得税・住民税の減税を先行して実施することを条件にしていたが、「苦痛を伴うことも、国民にはっきり言う政治家の勇気と見識である」と評価されていた。
さらに「言わないことは政治家の怠慢だ」とも述べ、2007年11月、自民党と野党民主党の大連立構想が浮上した際には、当時、民主党の代表であった小沢氏は仲介役の自民党森元総理に対し、「消費税(率引上げ)を言った方が(選挙で)負けるということを繰り返していたら日本の政治は前進しない。
社会保障、税制を含めて同じテーブルでやろう」ともちかけた(森氏談)といわれる。】(2012年2月15日付j.union ホームページ「語り継ぐもの」№52)
よく分析すれば、その時々によって主張をくるくる変えすぎる感が強い。私などは、この態度を選挙目当ての変節として非難するのだが、小沢氏を支持する人々は、この主張の変化は、「君子が豹変している」と評価することになる。どちらが正しいということより、「君子豹変する」をめぐって解釈に相違があることを指摘したいのである。
もう一つあげれば、「維新の会」の橋下氏にも同様のことが言える。福島原子力発電所の事故に際し、日本の「原子力発電」はゼロにすべきとの主張を繰り返していた。
しかし、実際には、関西の電力供給の不足が経済に大きな打撃を与え、とりわけ関西経済圏が立ち行かなくなる事態を目の当たりにして、「大飯原発の再稼動やむなし」と豹変する。この豹変を、いい意味で「君子が豹変した」と見るのか、時の状況に移ろいを見せる「変節」と見るのかで、大いなる議論が交わされた。
どちらの主張の正当性を云々するのではなく、これも「君子」が「豹変」した例えになるということである。
まだまだある。大阪都構想をめぐっての橋下氏の発言。橋下氏は、当初、「都」という名称にはこだわらないと述べていた。「名称は『都』でも『府』でもなんでもいい」(堺屋太一・元経済企画庁長官との共著「体制維新―大阪都」)とまで明言していた。
ところが、民主、自民、公明など大阪の構想に対して五党が新法案の大筋で合意した途端、2012年6月29日の記者会見では「名前がすべて。ものすごい重要だ。都がダメなら、州ぐらいでもいい」と、以前の主張を棚に上げて強い不満を述べた(2012年7月1日「読売新聞・朝刊」)。
その発言の真意をめぐっては「ハードルをあげて、実現しなければ国のせいにしたいのではないか」という憶測まで出ているという(同記事)。
そのわずか5日後、名称について【「(府のままでは)国民にメッセージが伝わらい」としつつも、「最後は国会議員の判断に任せたい」と、「府」の名称を容認する姿勢】に転ずる。(2012年7月5日読売新聞朝刊)
くどいようだが、政治の世界ではこの類の話はいかにも多いし、また、マスコミの論調も同様で、以前とまったく違う主張を平然と書くことも散見される。
私たちはこうした情報が錯綜している環境の中でどうしたらよいか悩んでしまう。その判断基準をどこにおくのか。
結局は「現実との整合性をとるために変化した」のか、何らかの目的のために「都合がよいように変節している」のかを見極めていくしかないようだ。
さて組合運動はどうだろうか。時代環境が大きく変わりつつある今、大事なことは、過去の活動を振り返り今後の活動の在り方を考える際に、今までの運動を検証した結果が自分に不都合なものであったにしても、勇気をもって反省できるのかが重要なのであろう。
組合の主張や意見が、経済や社会環境の変化に適応しているのか否か、絶えず検証することで、はじめて正しい「君子が豹変」できるのである。
注① 儒教と五経
儒教は孔子によって打ち立てられ、日本のみならず、東アジア各国に対しても大きな影響力を持っている思想である。発祥の地中国では、儒家思想として哲学・思想の中で高い地位を占めている。
この儒教は、基本となっている六種類の教典から成り立ち、その総称を経書(けいしょ)と呼ぶ。よく言われるのは「詩経」(しきょう)・「書経」(しょきょう)・「礼経」(れいきょう)・「楽経」(らくきょう)・「易経」(えききょう)・「春秋経」(しゅんじゅうきょう)の六経のうち、「楽経」を除いた「五経(ごきょう)」である。長い歴史の中でこの五経も変化し、今では唐代以降の「周易」(しゅうえき)・「尚書」(しょうしょ)・「毛詩」(もうし)・「礼記」(れいき)・「春秋左氏伝」(しゅんじゅうさしでん)を五経という。



