鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

「責任から逃れる自由」を求めた罰~人類永遠の問い「近頃の若い者は」~ vol.83
2014/06/15
 恐竜がこの地上で我が物顔に振舞っていた頃、私たち哺乳類の祖先は、モグラとして地下にもぐって細々と生活していたという。
「このようなモグラの仲間のうち、夜、こっそり木に登り虫を探しているうちに腹が減って果物を食べるようになったのがサルになった」(林・元上野動物園園長)。

 人間の祖先がサルで、サルの祖先がモグラということになれば、ゲームセンターにある「モグラたたき」などは、人間にとって祖先を軽んじる不遜な行為とも言うべきか?

 この生物進化の理論が確立されたのは、イギリスの植物学者、ダーウィン(1858年「種の起源」)によってであるが、歴史に残る偉大な思想家や学者が、そうした理論や哲学をどのような動機で確立してきたのか、われわれ凡人にはどうしても分からないことである。

 思想分野でいえば、人類は農業革命を経たことで既存の道徳哲学に変わって新しい思想体系を登場させる。紀元前五世紀前後を中心に釈迦、孔子、イエスなどが活躍するのだが、この時代に確立された思想が、今も私たちに強い影響力を持っていることに驚く。
こうした偉大な思想家を輩出する人間は実に偉大なのだが、偉大な人間であるにも拘らず、世界の文明はなぜ滅び、なぜ生成する繰り返しをしてきたのだろうか。

 あの巨大な恐竜が滅びたのは、実に微小な細菌のせい、という説もあれば、恐竜は恐竜であろうとするために、つまり巨大になることによって、自然界に適応力を失って滅んだという説もある。
また最近では巨大惑星の衝突による天災地変が原因との説も聞く。よく分からないが、これらいずれの理由であっても、恐竜と人間の文明社会の滅亡とは共通性を持っている気がする。

 インダス文明は、紀元前一千年頃、忽然と消えたが、ギリシャ文明もローマ帝国もその社会が目的とする民主主義と自由?によって滅びる。
「人々は最後に……安楽な生活を望み、かくてすべてを失った。安全も安楽もそして自由をも……。アテネの人々が最後に、社会に与えることを望まず、社会が彼らに与えることを望むようになったとき、また彼らのもっともの希求する自由が、責任から逃れる自由となったとき、アテネは自由であることをやめたのである」(エドワード・ギボン「ローマ帝国衰亡史」)。

 中世ヨーロッパもまた、貴族の贅沢な飽食と性道徳の乱れが極限に達して衰亡していく。俗説で恐縮だが、貴族の飽食は言語に絶する。
食堂の周囲に溝を配し、食べてはその溝に吐き水で流す、吐いてはまた食べる。それまでして美味いものを食べ続けたいという。まさしく限りない欲望の表れである。
性道徳の乱れも言語に絶する。確実に子孫を残すために多くの異性と交わり、指折るだけでは足りない数の子どもたち、相続でもめないために何人かは死んで貰わなければならない。
毒薬「砒素(ひそ)」を、「相続の薬」とまで言わしめる救いようのない貴族社会が末期を迎えるのは必然でもあったのだ。

 文明の生成と滅亡の繰り返しは、人間の知恵の浅はかさ以外何ものでもない。かつての日本人の象徴でもあった「勤勉さ」が姿を消し、現代社会の経済の根幹である消費が持て囃され、「勤勉から消費へ」、「質素から華美へ」、そして「コツコツ」から「一攫千金」を夢見る価値観、それが間違っているのと思いながらも、人間の業がそうさせてしまうのだろうか。
いつも同じ過ちを繰り返しているようだ。「正規社員だけの生活水準の向上」という現実も、金額の多寡は別にして、「自分たちだけ良ければ」という心を蝕む危険を内包している。

 釈迦や孔子やイエスの思想の偉大さに敬意を払うのは、何千年経ってもそれを超越できないのも人間としての贖罪なのか。アテネの市民が「最後に望んだ自由が、責任から逃れる自由」になったとき、アテネは繁栄から滅亡へ、他国に蹂躙され市民は奴隷に身を落とす報いを受けたのである。今日の日本社会の自由も、その自由を守るためにおのずから果たすべき国民の義務があるのである。
その果たすべき義務とは何なのか、その答えは一人ひとりが考えていくしかない。

 現在に至るまでさまざまな形で引用されているアメリカの第35代大統領ジョン・F・ケネディ の就任演説(1961年1月20日)、ケネディ大統領は、「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません。
あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」と演説した。この「祖国があなたに何をしてくれるのかを尋ねてはなりません。あなたが祖国のために何をできるのか考えて欲しい」の名言は、アメリカをアテネにしてはならないという意味と同じである。

 今日の安全と繁栄と自由を守るために果たすべき国民の義務とは。遠くローマ帝国時代から問い続けられている問いへの答えがないまま、今を迎えているのだろうか。

 そういえば、昔は「今の若いもんはだらしない」と言われ、今は自分が若い人々に同じことを話す。
そして、それが世代ごとに語り継がれていくとすれば、人間というものは未来永劫、未熟のまま生き続けていくということであり、ローマ帝国時代から変わらぬ人間社会の宿命なのかもしれない。

 私たちが当たり前と考えている労働には、二つの側面がある。
一つは、会社に勤めて働き、それによって賃金を得て生活の糧にする「経済的側面」である。もう一つは、働くことを通じて人としての価値を高めていくという「精神的側面」がある。
仕事を成し遂げる充足感、仕事を通じて育まれる人格の向上などなど、労働を通じて培われる精神的意義は計り知れない。こうした中での労働組合の役割は何なのか。

 過去私たちは、あまりにも労働の「経済的側面」だけにこだわる続け、賃金交渉だけがすべてあるかのごとく組合運動を続けてきたそしりは免れない。
「勤勉」から「一攫千金」を求める風潮も、労働組合運動の歴史とは無縁ではない。働くことで人生を送る私たちは、その労働を通じてどのような「働きがい」や「生きがい」をもつべきなのか、そこに焦点を当てた組合活動をつくりあげるときが訪れている気がする。

 なぜなら、労働組合こそが、日本社会を「アテネ」にしない力をもっていると信じるがゆえである。           

 (本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)