鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

『個人は質素に、国家は豊かに』の名言は今? vol.86
2014/09/15
 確か21世紀を迎えるにあたって、20世紀は工業の時代、それに対し21世紀は文化・芸術の時代といわれていたように思う。文化とは心の豊かさの象徴だから、20世紀が物質文明の時代だとすれば、21世紀は心の時代ということなのだろう。
かつて人々の尊敬を集めていた名経営者の土光敏夫氏(元石川島播磨重工業 社長、元東芝 社長・会長、元経団連会長)の「個人は質素に、国家は豊かに」という言葉を思い出す。今の社会を見るにつけ、この言葉の重さを感じる日々であるが、この国家とか社会というものはきわめて抽象的で具体的に何を指すのかがよく分からない。
それでも、国や社会を構成する一人ひとりは、禁欲的とはいわないまでも欲求のおもむくままに生きるのではなく、よくいう「人としての尊厳」を追い求めるために、自らを律し華美に流されることなく質素に生きろという意味はよく分かる。
社会の基盤となる人間が物質に翻弄されることになれば、社会全体がそうした風潮になっていくことも今日の拝金主義の蔓延が証明している。現代社会に蔓延する犯罪も要職にある各界リーダーの言動も、自らを律しきれない病巣を抱えているように思えて仕方ない。

 今再び、北朝鮮の拉致被害者問題が脚光を浴びているが、日本人の悲願である拉致被害者の早期帰国が実現することを願うばかりである。
それにしても、自分の知る限りにおいて、今の北朝鮮の状況は戦前の日本と同じにみえて仕方がない。歴史的にみても、世界中のどこの国でも戦争は自衛を理由にしている。
 そして、戦争を起こすのは政治家と軍人で、被害を受けるのは一般の国民と決まっている。

 戦前の日本が「欧米列強の圧力に追い詰められて、自衛のためにやむなく戦争を起こした」という日本の航空自衛隊の元幕僚長の田母神俊雄氏の主張も、北朝鮮が「国際的に孤立し追い込まれているから核武装する」という主張も質的には大差ないのだ。言論の自由がないという北朝鮮の時代錯誤も、戦前・戦中における日本の国家権力による言論弾圧と、これも大差ない。
情報が公開されないために国民が真実を知る由もない北朝鮮の現状も、言論統制に代表される全体主義のもとで「国際連盟からの脱退」を決めた日本政府や軍部の決断に、提灯行列までして歓喜したかつての日本とどこも違わない。マスコミを通じて流される北朝鮮の権力機構や社会環境を耳にすればするほど、日本が歩んできた道とまったく同じであることに言い知れぬ恥ずかしさを感じる。

 拉致問題は国際外交の複雑さや難しさを私たちの前に見せつけている。感情的にいえば国際的に圧力をかけて反省を迫りたいのは誰しもが思うに違いない。
 そういえばかつての日本もそうであった。今の北朝鮮と同じように、国際社会全体が日本の行動を非難し制裁を加えてきたため、日本は石油などの資源が枯渇したという理由をもって、アジアに資源を求めて戦争することを正当化しようとした。
北朝鮮を非難しながらも、北朝鮮が歩んでいる道こそが、かつて日本が歩んできた道だと気がついてしまうと、国際関係の複雑さ、微妙さ、難しさから思索は迷路に迷い込んでしまう。戦争を起こすのが政治家と軍人であるとするなら、かつての軍人のトップが、先の「大東亜戦争・第二次世界大戦は自衛のため」、「正義の戦いであった」と言うに及んでは、しかも自民党内でも多くの賛同者を得ているということになれば、日本が再び悪夢の道を歩み始めたと危惧するのも止むを得ないであろう。
同時に、論理的に言えば北朝鮮が追い込まれて(北朝鮮はそう主張するであろう)核戦争に踏み切った場合にも、それは自衛のためであると擁護するつもりなのであろうか。

 また「自衛官であっても言論の自由はある」(前掲の田母神氏)と言いつつ、氏が自衛のためと正当化している先の第二次世界大戦の際に、日本に言論の自由がなかったことをどう考えているのか、どう考えてみても理解できないことだらけである。

 そうした矛盾に満ちた思想を持っている人間が、人を殺傷できる武力を行使できる航空自衛隊のトップ・航空幕僚長の地位に居たこと自体が恐ろしく、また、幸いにも当選しなかったとはいえ、日本の首都の最高権力者争いに(都知事選)に名乗りを上げた状況が恐ろしかったのである。

 言論の自由が損なわれた数々の事件のうちの一つに「横浜事件」がある。この横浜事件とは、1942年(昭和17年)から終戦直前にかけて、雑誌「中央公論」の編集者ら60人以上が「共産主義を宣伝した」などとして、治安維持法違反容疑で神奈川県警察特高課に逮捕されたもので、30人以上が起訴され、多くは終戦直後に有罪判決を受けた。東京高裁は2005年3月、元被告らの自白は拷問(「裸にして縛り上げ、正座させた両足の間に太い棍棒を差し込み、膝の上に乗っかかり、ロープ、竹刀、棍棒で全身をひっぱたき、半失神状態に…」)によるもので、「無罪を言い渡すべき新証拠がある」として再審を認める判決を下した。
この事件が注目を浴びるのは、終戦後に廃止される治安維持法を根拠にしているために、終戦直後の混乱期の中、まるでどさくさに紛れるごとくに判決を急いだことや、今回も「治安維持法は廃止されているのだから免訴(有罪・無罪を決めないですますこと)すべき」という検察庁の主張も出された。

 しかし一方では、免訴にしたのでは「本人たちの無罪が明らかにされず、名誉は回復しない」という元被告の主張との対立があった。その上、元被告のうち5名はすでに他界しているために、名誉回復を願う遺族が再審請求を起こしていること、裁判記録がほとんど残されていないことなど、いずれも前例のない性格をもっていたからであった。

 このように、未だに戦時中の言論弾圧の傷が癒えないままの日本なのに、またぞろ「ヘイトスピーチ」(「語り継ぐのもの」(76)(77)参照)、「憲法改正」、「集団的自衛権」など、同じ過ちを繰り返すのかと思えるほどの偏狭的ナショナリズムの高揚は、どう考えても「個人は質素に、国家は豊かに」の「国家」とは何なのかを考えさせ、「国家」という言葉自体がむなしく聞こえてしまう。

 21世紀は心の時代といわれるが、それを実現させる力は、金融危機を招いたカジノ経済体制にも、今の政治権力にも期待できない。せめて労働組合こそが社会の主要な構成員として、「正直者が馬鹿を見る」ことも覚悟の上で、21世紀社会の在り様を作り上げて欲しいものである。