鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

日本礼賛の危うさ~偏狭ナショナリズムの克服を忘れずに~ vol.95
2015/03/15
 2020年の東京オリンピック招致の際に話題になった「おもてなし」以降、日本の素晴らしさ、日本人の素晴らしさを強調するテレビ番組が多くなった。
 日本の職人の技、盆栽、庭園、荘厳な神社仏閣、着物姿、日本社会の安全、製品の安全性・信頼性の高さなどなど、目に見えるものにとどまらず、日本の精神文化にいたるまで、外国人が驚く映像は、自分のことではないのに心がくすぐられて心地よいものだ。

 2月には、中国のお正月にあたる春節に際して、中国人の訪日観光客の買い物が、「爆買い」と称されて毎日のように画面をにぎわせた。国内の消費低迷という日本経済の心配事をうち払うような映像も、私たちを驚かせる。
昔、日本も戦後の荒廃から立ち直り、高度成長を背景に国民生活は向上の一途をたどったころ、生活の向上と比例するように、日本人の海外旅行が盛んになり、行く先々で大量の買い物を繰り返し、「買い物ツアー」なる皮肉も聞こえてきた。
中国の漢方薬品店に出かけて、「その棚のもの全部」といった話もあったほどである。「カメラをぶら下げ、メガネをかけて買い物していたら日本人と思え」などという評判もあったという。中国人の「爆買い」も、かつての日本人の姿とダブる。マナーが悪いというのも同じだ。洋式便所になれない日本人が、ヨーロッパで見せた様も、まったく今と同じだ。

 やがて訪れた「バブル景気」の時には、アメリカの店舗やビルを買いあさり、あのニューヨークのティファニーですら日本人によって買われてしまったほどである。国内の土地代金は高騰し、日本の全国土を買うのに必要なお金で、アメリカ全国土の五倍に達する土地を買えるなどとも言われた。

 経済発展による生活の向上は、国民の眼を憧れの海外へ向けさせ、多少の余裕ができた財力を以て現地の顰蹙(ひんしゅく)も気づかなくなるらしい。

 中国の「爆買い」は、かつての日本人が歩んできた道の再現であり、生活の向上を表す意味では好ましいことでもあるのだ。尖閣諸島問題で険悪になった日中間も、まさしく「政経分離」よろしく人々に好感を与えている。

 その一方で、中国人のマナーの悪さも話題にする。これもかつての外国から顰蹙をかったように、日本自身が歩んだ道なのだが、幸い日本に対しては、文化水準が上がったことでそうした批判もなくなり、人々の頭から忘れ去られた。だから、多くの日本国民も一部外国人のマナーの悪さに同じ思いを抱くのである。そして、日本にもたらしている経済的恩恵があったにしても、知らず知らずのうちに、私たち日本人と比べて何と野蛮で礼儀知らずなのだ、という思いが生まれる。

 「ニッポンって素晴らしい」、「日本人は親切で優しい」という声に気を良くする思いと、だから他国は劣るのだという思いが同居してしまう。
 人にはそれぞれ個性があり、長所もあれば欠点もある。それと同じように、国にも長所があり、欠点があるのだ。自らが胸を張れる民族は、同時に他国も尊重する心を持たねばならない。

 「ニッポンって素晴らしい」のは、他国が劣るからではない。外国人もまた、私たちが気付かない素晴らしい特性を持っているはずである。
 これも昔話だが、外国で見られる日本人の姿は、東南アジアなどの途上国では胸を張って歩くのに、ヨーロッパに行くと、道の片すみをこそこそと歩いていると揶揄されたこともある。心の中にある相手国への思いが態度に出てしまうからだ。これが行き過ぎれば、一種の人種差別意識ということになるのだろう。

 思えばこの世の歴史の中で「人種差別」はどのようにして生まれてきたのだろうか。
【シェークスピアの「ベニスの商人」では、欲張りのシャイロックはユダヤ人であった。また、ゴーゴリ―の「隊長ブーリバ」のこざかしい商人ヤンキリもユダヤ人であった。こうしたことから人々の心の中に、知らず知らずのうちにユダヤ人への偏見が生まれる】(「世界の中の日本」衛藤瀋吉)。

 偏見は時代とともに移り変わる。前述した外国における日本人の態度の差も、【松本清張の小説においても、「このホテルは外人も来る」、「このナイトクラブは外人も多い」という表現で、白人の出入りするところは一流であり、上等であるというイメージを作りだした】(同書)といわれる。
とすれば、当時の日本人は、先進国には畏敬の念が強かったせいかもしれない。

 いま本屋の店頭に行けば、日本礼賛の本が目につく。改めて日本の素晴らしさ、日本人の素晴らしさを自覚できるのは嬉しいことだ。
 民族、言論など、混沌とした世界になり、過去にないくらいに理解するのがむずかしくなった。日本人ジャーナリスト殺害のテロも私たちに大きなショックをもたらした。

 テロの語源は、【フランス革命の末期、ロベスピエール率いるジャコバン派独裁による恐怖政治(レジーム・ド・ラ・テルール)のテルール(恐怖)ということになっている。

 自由と人権を尊重する法治国家は民主主義国の最大の長所だが、それを利用して攻撃してくるテロに対しては最大の弱点になる。「自由と人権を尊重し、法律を守って」防御しようとしても防ぎようがないからである。

 テロとは、敵と見なした国や団体の一般市民を無差別にできるだけ多く虐殺して、世間を震え上がらせ、テロは防ぎようがないという無力感を蔓延させ、自分たちの思い通りの世の中にしようと目論むのである】(ウィキぺディア)。

 民主主義や自由という制度がテロの前にまったく無力だとすれば、「テロは防ぎようがないという無力感を蔓延させ、自分たちの思い通りの世の中にしようと目論む」ことを阻止するしかない。それには途方もない忍耐がいるし、同時に自らの行動も慎重にして相手に付け入るすきを与えないことだ。

 フランスの戯画をめぐる問題についても、「表現の自由も行き過ぎれば他人の宗教を侮辱することになる」(梅村昌弘・カトリック教会横浜司教)のだから、私たちの主張も慎重でなければならないのだろう。

 「ニッポンは素晴らしい」という気持ちと、他国への蔑視観は紙一重のようである。この他国への蔑視観が強くなると、日本民族の偏狭的ナショナリズムに行きつく。偏狭的なナショナリズムの先には世界の中で孤立する日本が待っている。

 私たちは、「日本の素晴らしさ」を自覚すると同時に、他国を尊重し、配慮する念をあわせてもたなければならない。
そう思って、今日もテレビのチャンネルを回し、「日本礼賛の番組」を見ることにしょう。