西尾 力の「BEST主義の組合活動のススメ」

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高木郁朗の春闘改革論に学ぶ(上)
2018/10/01
高木郁朗著「『労働組合の進路―常識からの脱却』第一書林(1987年)」は、30年前の労働界への提案ですが、今日の労働組合にこそマッチする内容です。

高木氏は「わが国で、労働組合がかなりの程度弱体化しているといわなければならないが、その弱体化の理由は、現代的な意味での『人間的な暮らしの質』を追求することに成功していないからに他ならない」と述べるだけでなく、
「企業のレベルでいえば、その企業が平常に運営されているかぎり、労働組合は、自分たちこそそこに活動し、それなりに成果をあげていると判断しているが、
いったん社会的なレベルに立ってみると、労働組合はじっさい上、今日必要とされる機能を果たしていない」と指摘します。

その危機的実態を示す証拠として次の3点をあげます。
(1)86、87年の春闘に示されるように、政府や財界の一部からの応援さえあったにもかかわらず、1975年以来の経営者主導、低額妥結の状況は(善戦した第3次産業共闘のように新しい芽がなかったわけではないが)基本的には変わらず、
妥結結果は国民経済の合理性からみた水準よりもはるかに低い程度に終わったこと。
(2)75年を最近のピークとして、労働組合の組織率が年々低下し、ついに28%となった(民間だけでみれば23%台)こと。
(3)減税や社会保障や臨調行革の中で示されたように、勤労者の生活にかかわる政府の政策に労働組合の意見の反映はますます小さくなっていること(このような状態はもっと直接的に勤労者の労働条件にかかわる分野、
たとえば労働時間法制、についてもいえることである)。

どうでしょうか。年や数字を置き換えれば、今日の時代にもおおかた当てはまる指摘になっている、とは思いませんか。

ただし、高木氏の春闘論の解釈には注目すべき点があります。“社会性春闘論”と呼ぶべきものです。単なる賃上げ論ではないのです。
「労働組合が現代における『人間の暮らし』を基準とする改革を目指す『思想』の問題から目を背けてよいという理由とはならない」と主張し、労働組合に求められる思想を次のように語ります。
「労働組合が賃上げを実現するのは、たんに賃金の水準を引き上げるということではなく、人間らしく引き上げるということでなければならない」というのです。
この“人間らしく引き上げる”とは、「現代の日本の状況の中で、人間として暮らしていくために、どのような賃金水準が、どの層の勤労者に必要なのか、
どのような制度や構造で与えられるべきなのか、が全面的に検討されなければならない」というのです。
そればかりか、ただやみくもに賃金の引き上げに取り組んでいると、「近年ますます上昇している勤労者の所得上昇意欲は労働組合によって充足されない。
そこで個々の労働者は残業を増加させたり、査定をよくしたりするという個人的な行動による所得上昇の行動に出て、組合離れを一層促進するという、労働組合にとって不幸な悪循環が発展するだけだ」と警告しています。

さらに、“人間らしく引き上げる”とは、「労働組合の活動がたんにより高い賃金とより短い労働時間の実現に向けられているものではないことを示している。(中略)
そのなかに人間と人間の関係を含むものであり、『自分』の労働条件がよくなれば、それで任務が確保されるというものではなく、(中略)
労働組合を通じて勤労者と勤労者の間の人間的な関係を作り上げていくことを含んでいるのである」とも述べています。

そして、“勤労者の暮らしについての基準”は、「職場レベルにおいてのみではない。
地域においてどのような社会的な財やサービスが供給されているのかは、当該地域の勤労者生活にとってはほとんど死活の重要性を持っている」と記されています。
「現在の日本で、人間的な暮らしをしていくためには何が必要なのか(あるいは何が必要でないか)を、もう一度、根本から問い直す作業を試みることなくして、その本格的な『再生』は不可能であろう」
「いずれにしても、労働組合としての思想的基準、要求や方針の立て方、活動の様式、政治とのかかわりなど、労働組合がかかわるすべての分野で、これまでの常識を再点検し、
全面的な見直しを行うことこそが『再生』の前提条件となるであろう」と述べているのです。
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