西尾 力の「BEST主義の組合活動のススメ」

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高木郁朗の春闘改革論に学ぶ(下)
2018/11/01
今月も、高木郁朗著『労働組合の進路―常識からの脱却』第一書林(1987年)より、春闘に対する提言を紹介します。

30年前に、高木氏は「もう『春闘』の時代ではない」と述べています。それは、「『低賃金』の時代は終わった」からだと言うのです。
労働組合が賃上げを求めるのは「賃金が低い」と判断するからです。この「賃金が低い」と言う場合、これまでわが国には6種類の「低賃金論」が存在していた、として次のように紹介しています。

(1)範疇的低賃金論:マルクス経済学に基づくもので、労働力の再生産費用(その時代の標準的な人間生活を営む費用)のことで、わが国の賃金が「賃金以前」の状態にあることを指摘しようとするもの。
(2)比較最低賃金論:国際的な比較から見た低賃金というもの。ただし、比較する場合は賃金額だけでなく、労働時間単価で比較しなければならず、直接賃金だけでなく間接賃金(福利厚生などの労働費用)も含んでいるもの。
(3)格差低賃金論:賃金水準が高いか低いかということとは相対的に独立して、平均的な水準よりも低い労働者が多く存在することを根拠とした低賃金論
(4)相対的低賃金論:これは利潤に比較して賃金が低いという理論です。具体的には労働分配率の低さ(資本分配率の高さ)で証明されるもの。
(5)社会的低賃金論:現実的に労働者が受け取る所得の額としての賃金がある程度高くなったとしても、生活全体における所得が不十分であれば、低賃金であるというもの。社会保障の給付も含めて生活を考えるもの。
(6)本質的低賃金論:マルクス経済学からくるもので、資本制生産の行われる社会では、全体としての労働者階級が、生産手段を独占的に所有・支配している資本家階級に搾取されている関係から、本質的に低賃金であると考えるもの。

以上の6種類の低賃金論(正社員の賃金水準を対象にしたものと解釈するべき : 筆者注記)は、その内容を検討すれば、今日ではほぼ妥当でないことは明確であると、高木氏は説きます。
春闘が機能しないのは、ただ労働組合が弱くなっただけではなく、かつてある程度当てはまった低賃金論という根拠自体が実態と合わなくなり、従って、賃金闘争に求められる機能それ自体が変化してきたことが原因であるというのです。
そして、低賃金論が根拠を失った以上、春闘も機能を喪失するのがある意味では必然だ、と述べています。
以上の論理展開から、高木氏は結論的に次の2点の疑問(批判)を提示します。

(1)労働組合は賃上げだけにその機能を限定してよいのか。
(2)賃上げに関しても平均的な水準を上げることにのみ関わればよいのか。
今日の春闘の論理は、「低賃金」ではなく「良好な経済循環のために」という政治経済学的論争の中の春闘となっています。
そのため、組合員・労働者の暮らしの中からの切実な要求からスタートした運動でもなければ、高木氏が言うところの「人間らしい生活を求めて」のものでもありませんから、春闘が盛り上がるはずもありません。
そしてさらに、その結果が要求額を下回るものならば、期待を下回る結果はクレームを生み出すだけで、ますます組合離れする春闘となるのは必然です。
高木氏は、「今日では、賃上げだけで暮らしを考えることはできないし、また賃上げに限定しても、今日では平均的な水準よりも、もっと構造的な側面にメスを入れるような賃金闘争が必要ではないか。
それは春闘の転換とか、再構築といったレベルのものではなく、春闘を超えるようなものが創造されなければならない」としています。
その根拠として、次の3点を挙げています。

(1)賃上げだけではもはや人間的な暮らしの質が保障されえない状況が現れていること。
(2)一方で年収100万円以下のパート労働者などが多数存在し、しかし他方で個別的には年収2000万円クラスの要求水準をもつ労働組合員が存在するという実態のもとで、「平均」「横並び」で賃金問題を考えてもほとんど意味がないこと。
(3)産業や業績の動向を考えても「相場」の機能がはっきりと異なり、皆がより集まれば、より高い賃上げが可能でしかもその相場がともかく全体にいきわたる構造でもなくなっていること。

以上の3点を踏まえて、長い春闘の歴史の中で、労働組合のやり方はこれしかない、といった考え方が一般の組合員の中にもあり、変化した状況に適した活動方法を見いだし得ていないというのが実情ではないだろうか、としています。
そして、春闘の構造自体を見直さなければ、わが国の労働者の生活の質的な向上には役立たない、と提言しています。

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