西尾 力の「BEST主義の組合活動のススメ」

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若者の価値判断がもたらす組合活動の後退
2013/12/02
◆情勢は労働運動復活の好機なのに……

 グローバル経済がもたらす先進国の賃金水準の低下と格差の拡大、さらにそこに労働組合の組織率の低下が加わって、労働組合の衰退は誰の目にも明らかなものとなっている。
 しかし、冷静に考えたならばそのような労働環境の悪化は、むしろ活動が活発化する条件になるはずで、労働組合の存在価値を高めてしかるべきなのに、そのようにはならないのはなぜか。
 マルクス主義が不死鳥のごとく復活し、社会を席巻してもよさそうなのに…。「年越し派遣村」が注目を集めたり、小林多喜二の『蟹工船』がリバイバルしたりしたものの、労働運動そのものは衰退し続けている。

 なぜだろうか?
 そこには、現代の若者たちが身につけた価値判断基準、「オレ様化する若者たち」が立ちはだかっているからだ。

◆「即時の等価交換」で価値判断する若者たち

 神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏は『下流志向―学ばない子供たち働かない若者たち』(講談社文庫)の中で指摘する。
 消費社会が確立した1980年代以降の日本に生まれた若者は、6つのポケット(両親及び双方の祖父祖母合計6人)に保護され、守られて育った子供たちである。
 生まれて、もの心つくかつかないかの年頃から、一人前の消費主体として自己を形成する。
 そのため、消費主体として「即時の等価交換」で価値判断する。しかし、「学び・働く」行為は「即時の等価交換」にはならない。
 考えてみれば、組合活動などはその典型である。労働組合に加盟し、組合活動に参加する、そして組合費を払うメリットも「即時の等価交換」で価値判断したら、現実にはなにも得られないものばかりだ。

 内田氏の指摘はさらに続く。
 労働の本質はそもそもオーバーアチーブなものなのに、現代の若者たちは、「働く・学ぶ」という行為の対価としての代償を得ることに、時間がかかるということが耐えられない。
 そればかりか、消費主体としての自我を確立するために不可欠の貨幣を手にする行為(労働)は、親の疲れた姿を目の当たりにして実感している。
 そのため、疲労や不快を自己申告する人間が優位に立つことを親の姿を通して学び、クレーマーを大量発生させてしまう。
 かつて子供たちは、家庭内労働を手伝うことで労働主体としての自我を確立した。
 しかし、家庭内労働の消滅によって、労働主体としての社会的承認を獲る力を失っている。
 そればかりか、自分の方が同僚よりも困難な仕事を与えられると、それを自分の能力に対する評価としてではなく、単なる迷惑として受け止める。
 同じ賃金なのに、自分の方が「大変な仕事」をさせられていると感じるのである。

◆「共同社会的な公共性」を学ばない子供たち

 プロ教師の会の諏訪哲二氏も『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)の中で、現代の若者の価値判断の問題点を、次のように指摘する。

 もの心つく子供時代から消費社会の中で、バラバラなむき出しの経済主体としての個が育てられているために、共同社会的な公共性を学ぶことができない。消費社会の中で、自由で主体的な近代的個人として自己主張するとき、周りや社会と調和しようとする努力をしないで、まず自分を選んでしまう。
 主観的と客観的との境界線が薄れ「自分はこう思う」ことは皆も思っているに違いない、あるいは、思うべきであると確信している。
 そればかりか、周りの助けなしに自立していると勘違いしている。

◆「オレ様化する若者たち」を前提にした組合活動を

 現代社会が生み出した「オレ様化する若者たち」。それをいつまでも、ぐだぐだと批判していても始まらない。
 戦後日本が大切なコンセプトとしてきた「自由(民主主義)」と「個性化(多様化)」が、消費(ビジネス)社会の中で合体し変身した産物が、今の若者たちのありようであるから、それを私たちは必然として受け入れなければならない。

 ならば、現代の若者たちの価値判断、「即時の等価交換」にも耐えうる組合活動を創造(マーケティングとイノベーション)することで活路を切り開く以外、道はない。
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