西尾 力の「BEST主義の組合活動のススメ」

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王道のワークライフバランスの取り組みを(上)
2016/04/01
■本当にワークとライフのバランスなの?

 組合員のプロフェッショナル化には、ワークライフバランスのとれた生き方になっていることも不可欠だ。
このワークライフバランスは労働組合のみならず、今日、政労使の課題として俎上している。
しかしどうもその議論が日本の長時間労働の部分を槍玉にあげ、労働時間の短縮としてのみ取り扱われているようにも見えてしまうのは、うがった見方だろうか。
 ワークライフバランスとは、仕事、自己啓発、余暇・趣味、健康、家族、友人・知人、ボランティア、お金などのバランスがしっかり取れていることが大切だ、と語られ、ワークライフバランスをワークかライフかの二者択一的な人
生の選択のように単純化して考えていないだろうか?
仕事そのものが生活であるといった考えが否定され、仕事は生活の手段でしかなく、働く意味や価値を「苦痛と苦役」にしていないだろうか?


■昨今問われるようになった課題でもない

 そもそも、労働時間短縮が社会的課題になり、ワークライフバランスという言葉が使われるようになったのは昨今のことではない。
 1980年代、欧米が石油ショック後の経済停滞からなかなか抜け出せないでいる中、経済整合論の春闘によって世界一早くスタグフレーションを克服した日本は、自動車・電気機器産業を中心とする輸出産業が「洪水のごとく」と表現
 されるほど好調となり、貿易黒字が国際的に問題にされるようになった。
なぜなら、労働時間が欧米先進国と比べて年間200~500時間ほど長いことが「不公正競争」だと国際的に批判されたのである。
 この欧米からの批判に、わび状の様にまとめられたのが「国際協調のための経済構造調整研究会報告」(1986年)、俗にいう「前川リポート」である。
 当時、経済アナリストの下村 治氏が『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』(文春文庫)と反論したのだが無視されてしまった。その後1988年、週40時間労働制に向けて、法定労働時間を段階的に短縮することを内容とした改正労働基準法の制定へと結びついた。

■ワークライフとは「労働生活」のことでは

 小池和男法政大学名誉教授は、『日本産業社会の「神話」』(日本経済新聞出版社)の中で国際比較データの危うさを指摘している。
 「日本については基本的な毎月勤労統計を積み上げて年間労働時間を算出した。その際ホワイトカラーも入れた。欧米のホワイトカラーはもともと残業は記録せず、当然にも残業手当も支払われない」
 「(日本の)毎月勤労統計がおそらく実質的にフルタイム中心の雇用労働者を見ているのに対して、他方OECDはパートも自営業者も入れた数値を掲げる」と述べている。
 ドラッカーは『断絶の時代』で、「組織を目的意識と責任を持って利用することである。この責任とそれに伴う意思決定から逃げるならば組織が主人となる。
 逆に、この責任を引き受け(意思決定する)ならば、我々が自由となり、主人となる」と述べている。取り組むべきワークライフバランスとは、このドラッカーの言葉を噛み締めて、労働者一人ひとりが職場の主人公となるための働き方の改革としてのワークライフバランスである。ワークとライフのバランスではなく、ワークライフ(労働生活)のバランス(充実・改革)である。

■労働時間全体平均の短縮で喜んではいけない

 誤解のないようにお願いしたいのだが、労働時間の短縮の必要性がないことを述べようとしているのではない。
「KAROSHI」などという言葉が国際的に通用してしまっている日本の現状で、
労働時間の短縮は喫緊の課題であることは十分承知している。
 しかし、その取り組みに当たって、当シリーズNo.11「日本人の働く意欲は世界最低に」(2014年8月号)で述べた状態を放置して、ただ労働時間短縮をするだけのワークライフバランスの取り組みでは、あまりにも危ういのである。
 昨今、ワークライフバランスのメッセージが社会的に発信されることになり、「個人意識の改革」や「個人行動の改革」の必要性が理解され、総労働時間の短縮が進んでいるようだが、これをもって成果とするのは短絡的すぎる。それ
はあくまでも全体の平均時間の短縮である。実数の分布までみないと、労働時間を短くした人の増加とともに、ますます長時間労働になっている人がいることを見過ごしてしまうからである。
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