鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

「『不都合な真実』VS『脱・真実』のせめぎあい」 
2017/03/15

 2006年、ゴア元アメリカ副大統領が主演し、地球温暖化に警鐘を鳴らした「不都合な真実」という映画があった。この映画は第79回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー映画賞を受賞、さらに地球環境問題の啓発に貢献したとして、主演したゴア氏にノーベル平和賞が授与された。
 人間の経済活動によって地球温暖化が進んでいると認めることは、人間社会にとっては「不都合」なことだが、それを真実・事実として認め改善しなければ、さらに地球環境は悪化して取り返しがつかなくなるという警告を発したものである。

 以来、日本でもこの「不都合な真実」という言葉は頻繁に利用されてきた。

 「不都合な真実」とは、自分の主張や主義に対して相容れず認めたくないことであっても、それが「真実」であれば「認める」勇気を持たなければならないという格言でもある。

 たとえば、労使交渉において、組合の主張に対して経営者側の反論がなされたとき、改めて相手の主張が「真実」であるとわかった時でも、「認めると自分の主張の誤り」を認めることになるからと、あるいは「沽券にかかわるから」と、真実から目をそらそうとしてしまうこともその一例である(同様のことは相手の経営者側にも見られるが)。

 今になって思えば、自分に都合が悪くても、「真実」であれば素直にその「真実」を認め、そのうえで自分としての主張をすればいい、と半ば達観した気持ちになれるのだが、それでも自分の主張にそぐわない「不都合な真実」を発見した瞬間には、それを認めたくない感情が湧いてしまうのも否定できない。
 そうならないように、自らの主張にも客観的に評価する習性を身につけようと努力しているのだが、思うようには成し得ない。人間とは自分に都合のよいことしか信じようとしないからなのか。

 アメリカのトランプ新大統領の発言をめぐって評論の数は夥しい。その中でも特に目を引くのが「ポスト・トゥルース」とよばれる、「脱・真実」という言葉だ。簡単にいえば「嘘のニュース」のことだが、トランプ新大統領とその側近たちは、こぞってこの「嘘のニュース」を流し、発信するという。

 非難されても「オルタナティブ・ファクト・もうひとつの事実」だと強弁する。こうした「嘘のニュース」を「もう一つの事実」としてごまかして流すのは、新聞やテレビのメディアのことだけではない。近年盛んになったインターネットが利用されている。

 ツイッターがその典型であるが、先のアメリカ大統領選挙で有名になったのが、
【「脱真実」現象を象徴する事件として一躍世界的に有名になったのが、首都ワシントンのピザ店が児童買春組織の拠点になっているという陰謀論に関連する発砲事件である。「民主党の大統領候補であるヒラリー・クリントンと陣営幹部がこの児童買春に加わっている」という話が大統領選挙戦の直前に保守系サイトやソーシャルメディアを通じて広がった。そして、選挙後の12月4日に、銃を持った男がこのピザ店に乱入したことで一気に「通常のニュース」になった。男は数回発砲し、負傷者はいなかったものの、45分もの間、店に籠城。警官とのやり取りの後、身柄を拘束され、テレビや新聞が「嘘の情報を信じた男が児童たちを助けようと乱入した」とこぞって伝えた。】(上智大学・前嶋和弘教授)という事件である。

 前嶋教授は、こうした現象について、
【不確定で誤解を意図的に招きやすい情報や明らかな偽ニュースが拡散していく「脱真実(post-truth)」と呼ばれる現象であった。ねつ造された情報がインターネットの保守系のサイトが取り上げることで注目され、それがソーシャルメディアを通じて一気に広がっていった。】と述べ、国民が誤った判断を下すよう、政治的立場から利用されていることに警鐘を鳴らしている。

 これらはなにもアメリカだけの現象ではない。日本でも似たようなケースは多くある。
自分の目や耳に入る出来事のうち、どれが真実で、どれが嘘なのか、見分けることは難しい。前述したように「不都合な真実」は、自分の主張を絶えず客観的な立場で検証しようとする姿勢なのに対し、「脱・真実」は、「自分の考え方に沿うものしか見ない人々」に支持されればいいと虚偽のニュースを流し、国民を「誑(たぶら)かす」ことを目的にしている点に特徴がある。

 ナチス・ドイツの例を見るまでもなく、言論の封殺・民主主義の否定を図る独裁国家はこうして生まれていく。情報の受け手である一般国民には抗すべき手立てはないのだろうか。

 いや、さすがに人類である。今、メディアでは、インターネットを含めて流されているニュースに対して、その事実確認をする手法が確立されつつある。
「ファクトチェック」と呼ばれる手法で、【政治家らの発言内容を確認し、「間違い」「誇張」など、その信憑性(しんぴょうせい)を評価するジャーナリズムの手法。トランプ米大統領には現状を踏まえない発言も多いことから、米メディアは積極的に取り組んでいる。最近では、ネット上の「偽ニュース」への対抗策としても注目されている。】というものである。

 これは何もアメリカだけのことではない。安倍首相の次の発言を検証してみよう。
✦2013年2月の衆院予算委員会で憲法改正手続きを定めた憲法96条について問われ、「3分の1をちょっと超える国会議員が反対をすれば、指一本触れることができないということはおかしいだろうという常識であります。まずここから変えていくべきではないかというのが私の考え方だ」と答弁。
✦2017年1月30日の参院予算委員会での発言。憲法改正について問われると、「具体的な案については憲法審査会で議論すべきだというのは私の不動の姿勢だ」と述べ、「どのような条文をどう変えていくかということについて、私の考えは(国会審議の場で)述べていないはずであります」と答えている。
明らかに「間違い」あるいは「ウソ」ということがわかる。
しかし、すべての出来事に対してファクトチェックの評価を目にすることはできないだろうし、目にする前に「脱・真実」のニュースを信じ込まされてしまうかもしれない。

 自分を含めて人間というのは、その情報が真実かどうかよりも、「自分に都合の良い情報を選び易い」のである。「信じたい情報」かどうかを優先してしまうのだ。そうすれば、反対意見に耳を傾けることもなく、なんにも考えず、悩まず、心地よい日常生活、心地よい人生を送ることができる。
「不都合な真実」を認めるのには、人間としての謙虚さ、誠実さ、崇高さが必要になる。反対に「脱・真実」に走るには、安易でもいいし、不勉強でもいいし、他人を貶(おとし)めることを厭(いと)う必要もなく、また、いい加減な人生観でも簡単に思い込める。

 世の中には「不都合な真実」と「脱・真実」のせめぎ合いが続いている。私たちはそれを見分けることができるのだろうか。たとえ嘘のニュースでも「自分と同じ主張だから」と迎合し、心地よい日常に埋没するのか。あるいは「自分の主張には都合が悪い」ことであっても耳を傾け、一つ一つの出来事の本質を可能な限り検証しようとするのか、どちらに立つかによって、人としての生き方が左右される。
そして、あなたは「どっち」の生き方を選択しているのだろうか。