鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

糸魚川大火災と労災補償、 そして組合の存在価値
2017/05/21

 2016年12月22日昼前、新潟県糸魚川市で火災が発生、火は瞬く間に燃え広がり翌日の夕方の鎮火まで約30時間続く大火となった。幸いにも死者は発生しなかったが、建物の被害は甚大で、火元から海岸に向かって144棟が焼失した。
この火災は、一つの火元から出火した火災の規模としては、日本国内で過去20年間で最大となった。家屋を巻き込んだものとしては1976年10月の山形県酒田で発生した大火以来の大火災となってしまったのだ。火元であるラーメン店の店主は、新聞の折り込みチラシで詫び状を配布し謝罪しているとの報道を目にしたが、気にかかるのは火災における賠償責任である。

 ラーメン店の店主は、コンロに鍋をかけたままその場を離れていたために出火し、当日は強風が吹いていた不運も重なり、未曾有の大火となった。出火原因は明らかに店主の過失によることは明らかだ。

 民法では、第709条で「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」ことを明記している。文面通り解釈すれば、店主の過失だから焼失させてしまった他人の家の賠償義務を負うことになる。
しかし、この709条には次のような但し書きがある。
特別法による修正(以下、条文を現代仮名遣いで表記)によれば、失火の責任に関する法律(失火責任法)として、民法第709条の規定は「失火の場合には之を適用せず。但し失火者に重大なる過失ありたるときは此の限に在らず」と規定している。
この規定により、失火の場合は、(故意または重大な過失がない限り)賠償責任は負わなくてよいことになる。木造家屋の多い日本では、失火による延焼(不法行為責任)によって、賠償が過大になりやすいからと言われている。
糸魚川大火では店主の不注意が「重大な過失」であれば賠償責任を負うことになるし、重大な過失がなければ賠償責任は発生しない。
実はこの条文の精神は、日本に木造家屋が多い云々からだけではない。はるか昔、イギリスで起きた名誉革命にさかのぼる。この革命は市民革命といわれ、それまでの王侯貴族に支配されていた一般市民がその圧政に対して起こした革命で、①財産権の尊重、②契約自由の原則、③過失責任の原則を打ち立てた。詳細は省くが、今回の火災における賠償責任の関連で言えば、③の「過失責任の原則」が関係してくる。

 ③の「過失責任の原則」というのは、「何人も故意または重大な過失がない限り賠償責任を負うことはない」というもので、もうお気づきだろう、日本の民法709条は「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」ことになっており、これとは「似ているがまったく異なる」条文である。

 市民革命による三原則③では、すべての出来事は「故意か、重大な過失がなければ責任は負わなくてよい」といい、一方、日本の民法では「普通の過失であっても、他者に損害を与えた場合は賠償責任を負う」(ただし火災だけは別)というものだ。
市民革命の三原則③は、その後に起きる産業革命による「過酷な労働環境がもたらす労働災害」に対して、被災した労働者に過酷な条件を課すことになる。すなわち、労働者が職場で労働災害にあった場合に、使用者に「故意、または重大な過失」がなければ、使用者に損害賠償の責任はないということだからである。
使用者に「故意、または重大な過失」があったと証明しろと言われても、怪我や死亡した労働者が証明することなど至難の業である。証明できなければ賠償してもらえない。つまり、「泣き寝入り」に甘んじるほかないのだ。

 こうした理不尽のせいで、当時、どれだけ多くの労働者と家族が辛い目にあったかは想像に難くないが、当然のように当該の労働者や労働組合が立ち上がり、使用者の理不尽さを糾弾するのは当然であった。そして一般市民も巻き込んだ運動が巻き起こり、ついに議会を動かし、「労働環境や労働条件の不備」をただす法律を作り、かつ、災害を蒙った労働者に対する補償を法制化していくことになる。日本の場合、前者は時を経て労働基準法などになり、後者は「労働災害補償法」になっていくのである。

 総じて「労働法」(労働基準法や労働組合法をはじめ、男女雇用機会均等法、最低賃金法など、働くことに関するたくさんの法律をひとまとめにして「労働法」と呼んでいる)と呼ばれるものは、こうして使用者の理不尽な行為を規制する目的で制定されてきたもので、決して天から降って湧いたものではない。労働組合の営々とした活動の積み重ねが労働法の制定になったもので、今日の週休二日制などを法制化したのも同じ流れの延長にある。
今日の安定した労働環境に対して不満がないからといって、「労働組合不要論」に与(くみ)するのは、歴史の否定、「天に唾する所業」なのである。不満の無い現状こそが、不要と主張するその労働組合が作り上げてきたものだからである。
市民革命の三原則③に比べれば、日常の生活面における損害の賠償に対して、日本の民法は、賠償責任の範囲を広くとらえている。賠償義務を負うことが多いことになるのだが、さすがに「火災」に関しては、火元自体も全財産を失うリスクを負い、その上で他者の賠償までは負いきれないという現実に照らして、「故意」や「重大な過失」がなければ賠償責任はないとしているのである。

 「コンロに鍋をかけたままその場を離れた」ことが、重大な過失になるのか否か、それが問われることになるのだが、仮に損害賠償責任があるとしても、144件にも及ぶ被害者への補償には応えきれないだろう。本文では、火元の店主の責任を云々するのが目的ではない。
世界的にみても労働組合は「助け合い運動、共済運動」から誕生している。とくに他からの火災によって家が焼けても賠償されない扱いになっていることからも、組合員に対し「火災共済」への加入を訴えるのは、組合にとって欠かせない活動であることを指摘したいのである。
さらに労働法についても歴史の教えの通り、使用者の理不尽な行為を規制するもので、逆説的にいえば、理不尽な行為がなければ労働法は必要なかったとも言えるのである。その意味で、理不尽な使用者からみれば、労働法は使い勝手が悪いのは当たり前なのである。反対に使い勝手がよいということは、理不尽なことが許されるということと同義になる。

 たとえば、ブラック企業の、法律で決まっている「最低賃金」以下で働かせる、「週休二日制」も認めない、「労働災害の補償」はしない、「残業代」は払わない、「長時間労働」もいとわずに働け、気に入らないから「即解雇」だ、解雇しても「金さえ払えばいい」……等々。
こうした主張は労働法がなぜできたのかも理解していないからなのだ。何の問題も起きない労働環境に整備し、処遇条件をきちんとさえしていれば、労働法などは制定されなかったのだ。

 今、一部の学者や経営者、政治家が労働法を非難する理由にあげている「使い勝手が悪」いのは、過去から理不尽な働かせ方をさせてきたから規制するようになったからである。そこに思いを致せば「ホワイトカラーエグゼブション」も、「解雇の金銭解決」なども思いつくことさえできないはずである。
労働組合が「賃金が上がることは喜ばしい」と、政府の後押しで「賃金引上げ」を進めている内に、とんでもない代償を求められようとしている。

 それらを克服することはできるのだろうか。労働組合の存在価値が問われている。