鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

日本は忖度社会?へつらう社会?
2017/07/21

 2017年に火を噴いた「森友学園事件」は、さまざまな事実を世にあぶりだした。

 日本の保守・右翼勢力が集まっている「日本会議」の存在も世間の注目を浴びたし、保守・右翼勢力が、国民の知らぬ間に国有財産を私物化していたことも明るみに出した。

 宗教団体「生長の家」や「仏所護念会」を母体としてできた「日本会議」は、憲法改正を視野にさらに活動を強めている。そんな集団の一員であった森友学園理事長は、今までは「日本会議」に所属する多くの人たちの支持を得て活動を続けてきた。安倍首相とその夫人のみでなく、多くの自民党議員も、かつては「森友学園の教育は素晴らしい」と賛同の声をあげていた。

 「教育勅語を暗唱させ、『安倍首相ガンバレ』と園児に言わせていた塚本幼稚園」で講演したのは、安倍昭恵氏だけではない。世に知られている櫻井よしこ、曽野綾子、村上和雄、渡部昇一、中西輝政、竹田恒泰、青山繁晴、高橋史朗、八木秀次各氏などなど、数多くの保守系文化人もあの幼稚園で講演している。
今や詐欺容疑者として取り調べられる人となってしまった前理事長・籠池氏は、【「あの頃は、日本会議の先生方を幼稚園にお呼びして、ご講演賜ることが日本のため、お国のためやと思ってたからね。なんぼ金を出しても惜しくなかった。お忙しいスケジュールを縫って大阪まで来て頂いた先生方には、今でも感謝してるよ」と言う】(「週刊朝日」6月16日号)。

 しかし、今回の問題が公になった途端に、手のひらを返すように関係を否定する人々は多い。安倍首相夫妻もそうだし、稲田防衛大臣もしかり。そうした人々は「戦死者を悼むのに靖国神社に参拝して何が悪い」と口をそろえる点でも一致している。

 しかし、こうした日本の右翼勢力と呼ばれる人々は、時として多くの問題を投げかけてきた。

 「東京都知事選」で落選し選挙違反で有罪となった田母神俊雄(たもがみ としお・元自衛隊第29代航空幕僚長。「日本をまもる会・大東亜聖戦大碑護持会」会長)氏もそうだし、今回の籠池氏もそうだ。そして、こうした保守・右翼と呼ばれる人たちに共通しているのが、天皇に命を捧げるとする「教育勅語」を礼賛し、明治節の復活を夢み、そして憲法を改正するのが正義だと主張することである。

 森友問題も邪推かもしれないが、おそらく今までは共通の価値観で心を一つにして行動していた際には、いろいろと便宜を図ったり、図られたりする関係で過ごしてきたのだろう。それが突如として当初と違った状況になった途端、仲間だと思っていた人々が手のひらを返すように「無関係」を装う様を見て、「昨日の友は今日の敵」とばかりに敵愾心に駆られて洗いざらいをぶちまけることになったように見える。

 国民の財産を理解不能な安価な値段で払い下げるに及んで、そこに政治家の介入、とくにお金をもらって便宜を図るのではなくても、相手の気持ちを慮って(おもなばかって)期待に添おうとする「忖度(そんたく)」があったのではないかと話題になった。

 この「忖度」は日本社会ではどこにでも存在するといって過言ではない。
精神科医の片田珠美さんは【忖度とは、「他者の欲望」を敏感に察知し、先回りして満たすことを指す。これは、人間が社会で生きていくうえで不可欠な能力だ。(中略)われわれは幼い頃から、親や教師などの周囲の大人の欲望を察知し、それを満たすことで環境に適応してきたからだ。
 当然、親の欲望を忖度する子供ほど、親の期待に応えようと、勉強、習い事、スポーツなどを頑張る。つまり、勉強のできる「いい子」というのは、だいたい“忖度の達人”といえる。

 そんな忖度の達人は、大人になってからも上司の意向を察知するのがうまく、それに沿うようにふるまうため、上司から有能で役に立つ部下とみられることが多い。当然、出世する可能性も高い。】という。

 そして次のように続ける。【例えば財務省のキャリア官僚には、忖度の達人がそろっていると考えられる。彼らは一様に、認められたいという承認欲求も、自己保身や出世欲も人一倍強いだろうから。こういう組織では、多かれ少なかれ、上司の意向を忖度して動くことが多い。特に傲慢なトップが長期間君臨している組織では、トップの意向を忖度しなければ生き残れないため、その意向を忖度せざるを得なくなる。必然的に、傲慢人間の周囲には、忖度の達人、つまり「イネイブラー(支え手)」が集まりやすくなる。】

 しかし、厳密な意味での「忖度」は、純粋に【相手の気持ちを推し量るという意味です。上役や権力者の意を体して動くという批判的な意味はなかった。(中略)日本語には権力に「へつらう」や「おもねる」という言葉はあっても、権力者の意向を推し量るという意味の言葉はなかった。】(日本語学者の飯間浩明氏)ということから言えば、森友学園問題は「諂(へつら)う」や「阿(おもね)る」という方が適切のような気がする。
会社組織のように異論をはさめない「上意下達」の強い組織では、トップ(社長)が間違った方針を決めると企業経営は危機に瀕してしまう。経営危機に至るまでに、日常的に上司の顔色をうかがう「おもねる」思いの積み重ねが社風としてあるからである。

 それは、上は社長と重役陣という関係から、下は課長と部下の関係というようにである。

 とくに、トップが傲慢であればある程「おもねる」気風が蔓延していく。傲慢なトップは、自分自身への批判を許さず、自分の意に従う人間ばかりを周囲に集めようとする。その環境は周囲に伝染し、社風として「おもねる」風土が日常化し誤りを正す力を削いでいくことになる。

トップを入れ替えればすべてが変わるわけではない。社風になってしまった場合には「上役におもねる風土」を払しょくできなければ克服することはできない。
読者には異論をお持ちの人もいるだろうが、日本のあらゆる組織にはこの「忖度」や「おもねる」が存在していることを認めるしかないと思う。

 そうはいっても両者の意味は全く違う。「忖度」が【「他者の欲望」を敏感に察知し、先回りして満たす。これは、人間が社会で生きていくうえで不可欠な能力】ならば、「忖度」を100%否定することはできない。むしろ、人間社会を円滑にするためには、「忖度」は必要不可欠な心情でもあるのに対し、「おもねる」風土には少しもいいことはない。だから払しょくしていかなければならない。
会社組織に限らず友人との関係においても、他人の気持ちを押しはかることは欠かせないのである。
問題は、「忖度」を人間関係の円滑化や公共の利益のためではなく、「自分を悪く思われたくない。よく思われたい」ために、あるいは不正義な便宜を私的に使うことになると、それは「へつらい」や「おもねる」ということになるのだろう。

 自分がよく思われたい。そんな心情を頭から否定するつもりはない。むしろ今回の騒動から「忖度」の必要性や重要性を改めて認識させて貰ったとでも言おうか。
「忖度」のない世の中は想像するだけでも無味乾燥した社会だと思うし、居たたまれないように思える。しかし、「忖度」が国民の財産を、政治的に、そして私的に使われたとすれば、それは「へつら」ったり「おもね」たものであり、政治の腐敗を推し進め、国民に不幸を強いることになる。

 森友学園問題に登場した「権力に阿(おもね)た官僚の人々」が、これから先、「おもねた」ご褒美としてどのような処遇を受けるのか興味は尽きない中、さっそく7月4日には、森友との交渉記録については「売買契約締結で事案は終了しているので破棄した」などと繰り返し、職員への調査を求められても「いちいち指摘を職員に確認することはしていない」と突っぱねていた財務省の佐川宣寿・理財局長(59)が国税庁長官に栄転した。【野党からは「森友問題の功労者として『出世』させた」との指摘も出ており、税の徴収を担う国税庁のトップとして納税者の理解を得られるかが問われる。与党の閣僚経験者も「事実に背を向けてでも、官邸の意向に従っていれば出世できるというあしき前例になる」と、起用した政府の姿勢を疑問視する。】(「朝日新聞デジタル」7月4日)。

 政治の世界で「おもねり」や「へつらい」が蔓延して森友学園、加計学園が問題になっているさなか、7月2日の東京都知事選で、自民党が大敗したニュースが駆け巡った。衆院、参院で多数を握り、「決められる政治」を標榜した「安倍一強」の自公政権は、「決められる政治」とは「何をしてもいい政治」とばかりに乱暴な国会運営を平気で行い、多数を背景に野党を貶(おとし)めることばかりに精力を費やしてきた。国会で多数を与えたのは私たちだから、「いまさら非難しても詮無いことか」と半ばあきらめていたら、国民は都知事選で痛烈な反撃を加えた。

 都知事選は、日本の民主主義がいまだ廃れてはいないことを証明してくれたようだ。