鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

「『会社あっての従業員』『従業員あっての会社』」~「労使関係」論~
2017/08/21

 日本では労働組合運動をめぐってはさまざまな考え方が混在している。その要因は、経済体制そのものに対する思想の違いもあるが、それらのマクロ論は別として、多くは、労使関係とは何なのかを考えずに活動している傾向からのように思える。これは労働組合だけに見られるものではなく、使用者側にも同様に存在している。
そもそも労使関係とは、労働者が存在するから成立する関係である。

 この場合、労働者が存在する理由が大きくかかわってくる。労働者というのは何もない中で生まれるものではない。会社が資本、建物、機械、あるいは材料など(生産手段という)をそろえ、生産活動をして(製造業が生産するモノだけでなく、ソフトやサービスも生産すると考える)初めて発生する。だから生産活動が行なわれなければ労働者は存在しないのだ。このことだけをとらえると、「会社あっての労働者」という理屈になる。そうすると、会社の存続のためになら、労働者はいつの場合も我慢や犠牲を厭うべきではないということになる。この理屈からは労使対等という概念は生まれてこない。
何が欠けているかといえば、同じ生産手段であっても、機械や設備など違って、労働者が人間であるという点である。労働者が機械や設備と同じなら、使い捨ても過酷な労働条件でも問題はない。

 しかし、人間は当然のように毎日生きていかなければならない。すなわち生活する必要があり、同時に「人間らしさ」・「人間の尊厳」というものがある。労働の対価としての賃金を得、それを生活の糧として生きていく。生活の糧を得られなければ生きていくことは出来ない。労働者が人間である限り、企業が労働者の「人間の尊厳」さえ保てないような雇用や労働条件のあり方は許されないのである。
企業の生産活動があって始めて雇用=労働者が生まれる。そして人間の尊厳と生活を維持できる労働条件・労働環境を確保するわけだが、会社と労働者の彼我の力関係は歴然としている。

 すなわち、会社にとっての労働者は生産要素の一部だから、必ずしもAさんだけを未来永劫必要としない。AさんがだめならBさんでもよいのだ。あるいはCさんに代わってもらっても良い。しかし、労働者の方はそうはいかない。A社を退社したら即一家の生活に窮してしまう。だから多少の不満があっても簡単には転職できない。
こうした状況を避けるために、一つには、会社から「あなたはわが社にどうしても必要な人」と評価されればいいから、労働組合が職業能力の向上に取り組むのは必要不可欠な活動となる。

 しかし、こうしたケースはまれであるから、普通の場合、力関係でいえば圧倒的に会社に分があることになる。そこで個人の力ではどうしようもない労働者が、集団を構成して(労働組合をつくって)会社と対等の立場になれるよう法律で定めているのである。
したがって、人間として生活するために、生きるために最低限どのくらいの所得が必要かが問われるのだ。そのために最低賃金が決まっているのである。企業がどこまでの賃金を払えるのかは二義的なことになる。だから、最低賃金を払うことによって、場合によっては企業が倒産することも残念ながら止むを得ないのである(企業が倒産すれば失業者が増大して、結局は、労働者が困るから、最低賃金を理由もなくただ高ければいいというわけにはいかないが)。人間として最低限の生活ができる水準こそが最低賃金であり、組合が最も力を注ぐべき処遇条件なのだ。

 一方、従業員が働かなければ企業は生産活動ができない。会社が成り立たないのだ。だから、ここでは、「従業員あっての会社」という関係が成立する。
このように、企業が生産活動をしなければ雇用は発生しないことから「企業なくして雇用なし」の論理があり、一方で、「従業員あっての会社」という論理がある。この相反する二つの論理を両立させるのは至難のように見えるが、狭い隘路を辿るように、双方の理論をギリギリのところで両立させるのが労使関係といってもよい。
今日のようなグローバル経済下においては、単に企業に雇用確保を求めたところで、生産活動ができなければ雇用確保はおぼつかないが、しかし一方で、経営者は業績が厳しいからといって、簡単に労働条件を切り下げる、あるいは、解雇して労働者の尊厳を否定することは戒めなければならないのである。
この矛盾した論理の妥協点を見出すには、労使双方の信頼関係によって成り立つ健全で安定した労使関係が必要になる。安定した労使関係がなくしてギリギリの労使の接点を見出すことはできない。

 ところが、この健全で安定した労使関係を作り上げるのは簡単なことではない。労使双方のトップの信頼関係はもとより、職場における上長と部下との信頼関係、組合役員と組合員の信頼関係、この三つの信頼関係がないと、本当の意味で安定した労使関係は成立しない。「三位一体の労使関係」というのはこうした相互の関係をさしている。

 こうしてみれば、「会社あっての従業員」、「従業員あっての会社」といわれる両者の関係をどのように両立させるのかが重要になる。
労使が一旦紛争を起こすと、互いに自らが正しいと主張し相手を非難するから、紛争の長期化は労使リーダーの個人間の相互不信のみならず、妥協し解決しても、相手を非難した紛争時の相互不信は従業員・組合員の心の中にも醸成されてしまう。紛争解決後の生産活動にも支障が出ることは明らかである。安定した労使関係が企業存続にとっても重要になる理由である。

 同時に、こうして両者によってつくり上げられた労使関係だからこそ、政党や政治にも介入を許さない、労使自治の精神が尊ばれるのである。「官製春闘」などと揶揄される近年の春の賃上げ交渉は、その意味で「あってはならない労使自治の姿」なのだ。
さらに、安定した労使関係を構築するためには、「相手が悪い」からという「どっちもどっち論」があるが、こうした「ニワトリが先か、卵が先か」論を克服した上で、会社がどうあれ、組合のリーダーとして研鑽を重ね、三位一体の労使関係を構築する一方の旗頭として、組合員からも、職場からも信頼されるリーダーになることで、使用者よりも「一歩先んじる」リーダー像が確立される。そうしてこそ、会社の職制よりも組合のリーダーの方が、より人間として崇高であり、人としての存在意義を持つのではないだろうか。

 いま組合役員には、自らも人格的にも理論的にも信頼されるよう努めるとともに、次代の労働組合リーダーを育成するための活動が求められている。