鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

民主主義は独裁者を生み 独裁者は民主主義を破壊する ~ヒトラー・トランプ・安倍政権に共通する思考~
2017/09/21
 この地球上に人類が誕生し、やがて言語や宗教によって集団で定住することで国家が定まった。したがって、国によって経済のシステムが異なり、全体主義や民主主義というように統治方法も異なっている。

 当然のようにその経済的利害の対立や統治方法の違い、支配欲や宗教の相違によって、国家間の対立、すなわち戦争が繰り返されてきた。

 そして人類は、さまざまな歴史を経て、国民一人一人の存在や人権・生活権の尊重、国民の尊厳の尊重を図るために、最も統治にふさわしい方法として民主主義を確立した。

 この民主主義が厄介なのは、民主主義が誤りを犯さない完全無欠な制度ではないということである。歴史を見ても完全無欠どころか運用を一つ間違えれば、独裁体制を生むことさえあるのである。人類が英知を絞って作りあげてきた今までの諸制度のうち、比較すればより優れた制度というだけで、民主主義の制度があればすべてうまくいくというものではない。

 1919年、国民議会で制定されたドイツ共和国憲法は、 国民主権、男女平等の普通選挙の承認に加えて、新たに生存権の保障などを規定し、20世紀の民主主義憲法の典型とされワイマール憲法と呼ばれていた。ドイツのヒトラーは、この民主主義の模範とも言われたワイマール憲法のもとで独裁体制を確立したのである。ヒトラーは民主主義が生んだ独裁者なのである。

 当時ドイツ国民は、第1次世界大戦で負わされた莫大な賠償の返済と、1929年の世界恐慌によって深刻な影響を受けていた。失業者は1930年には340万人、32年には600万人を超えていた。ヒトラー率いるナチス党は、1932年の国会議員選挙で議席数を2倍に伸ばして、比較第1党(議席率は4割未満。第2党は共産党)に躍進した。

その後首相の座を射止めたヒトラーは、反対する議員を拘束し、欠席した議員も出席とみなすという「特例法」を制定して、強引に全権委任法を成立させる。

ヒトラーはその全権委任法と、ワイマール憲法が認めていた「危機に際して国家元首の権限を拡大する『緊急命令発布権』」とにより、あの恐るべき絶対的権力を掌握するのである。

 その後、ナチスの政権が始まってわずか1年で600万人もいた失業者が激減。国民生活も短期間に大きく改善された。ヒトラーは1933年10月、国際連盟と軍縮会議から脱退した。国際社会に背を向けるこの外交政策は、第一次世界大戦の敗戦国としてベルサイユ平和条約の過酷
な条件に屈辱感を抱き続けてきた国民を熱狂させることになる。

 ヒトラーは、ドイツ人は「純粋なアーリア人」という民族優位性があると主張し、ユダヤ人の絶滅を正当化し強制収容所を建設した。ドイツは「優れた民族であり偉大だ」とヒトラーは国民を扇動し、国土を広げる戦争に走った。まずはポーランドへの侵攻である。

 このように、ナチスはワイマール憲法に基づいて民主的に選挙で選ばれ、議会で多数派となる。議会で多数派となったナチスは、全権委任法をはじめとする民主主義を否定する一連の法律を次々に議会で可決させ、ワイマール憲法を機能しないようにしてしまったのである。
今の日本のように、「日本は素晴らしい」という風潮は、ナチスの「純粋なアーリア人」の優位性の主張と酷似しており、これが度を過ぎると、外国人を排斥する風潮になりやすいことに注意しなければならない。「ヘイトスピーチ」はその走りでもある。アメリカにおけるトランプ政権の「アメリカ・ファースト」は、移民排斥の色を濃くしているが、明らかに人種差別主義政策とも言えるのもので、ナチスもトランプも日本も、国民の底に潜む差別意識は同根なのである。

 そして、独裁者が、独裁政治を進める上で、共通して推し進める政策がある。メディア対策、言論封殺である。
東京工業大学名誉教授で社会学者の橋爪大三郎氏は著書でこう指摘している。

【多数決は何が正しいかを多数で決めているわけではない。何かを決めるのには多数で決めようと合意しているから、それが全員を拘束するのです。決定が正しいかどうかということと、その決定が正統かどうかということは、別問題である。
つまり“多数決”は決定したことの法的な「正統性」は保証するけれども、それは「正しさ」を保証するものではありません。(略)
 “多数決”という機能を生かせるにはなにが必要なのでしょうか。それが「言論の自由」です。大切なのは、相手が自分と異なる主観、価値観を持つのはなぜなのか、その理由を理解しようと努めること。もちろん自分の考え方にもそれなりの理由があるのだから、それを相手に説明することも大事だが、それと同じように、相手のことも理解しようと努力する。
「言論の自由」がないところでは「正統性」は「正しさ」から乖離し、強制力(=暴力)をもたらすことになってしまいます。民主主義は決して能率がいいとは言えない。独裁制のほうがさっさとものごとがきまったりする。けれども民主主義ほど正統性を保証するものもないのです。なぜなら、すべての人びとが、「この決定は自分たちの決定である」と確信できるメカニズムになっている。自分の決めたことに文句を言う人はいないでしょう。だから正統性がゆるがない。つよい正統性を持っている民主主義だからこそ“言論の自由”を求めることが重要になるのです。】

 ところがトランプ政権は、既存メディアを「嘘のニュース」と口を極めて徹底的に非難している。日本の安倍政権も同様である。主要閣僚らが東京都議選の街頭演説で気に入らないメディアを「マスコミは責任を取らない」「かなりの部分間違っている」(麻生太郎副総理兼財務相)、「新聞を買ってもらっていることを忘れるな」(二階俊博自民党幹事長)などと批判する言動は、言論の自由を否定する思想から生まれる。連日、ツイッターで「FAKE NEWS!!」と自らに批判的なメディアを攻撃し続けるトランプ大統領と何ら変わるところはない。

 安倍政権には自民党国会議員や官僚機構、さらにはメディアなどに暗黙の「服従」を求めているような雰囲気があるといわれている上に、国会も機能不全も陥れさせている。憲法上、内閣は国会に責任を負うとされているにもかかわらず、会期延長の有無、委員会の開催、採決の日程など主要な国会運営は事実上、首相官邸の意向に支配されている。首相を筆頭に内閣が不都合な状況にさらされることを回避するため、審議せず、採決を強行し、会期は延長せず、閉会中審査も臨時国会も拒否した。つまり、「国権の最高機関」が官邸の従属機関に貶(おとし)められてしまったのである。

 集団的自衛権行使を可能にする憲法解釈の変更、さらには憲法そのものの改正問題など、これまでの自民党の政策を大きく変更する場面でも、党内で安倍首相の方針に異論を唱える声はほとんど聞かれない。批判を許さない空気によるものだろうか。

 国民は、選挙という民主主義の手続きによって安倍内閣を誕生させた。誕生した安倍内閣は、国の制度や政府機関を政治化し、政府に批判的な勢力を抑え込んでいく。

 裁判所や検察、情報機関、税務当局、規制当局などの国家組織の政治的独立が侵されると、「政府の不正行為を隠すことができるし、政府に反対する勢力を抑え込む力強いツールとして利用できる」からだ。

 また、友好的なメディアを特別扱いし(読売新聞への)、お気に入りの私企業には利権や政府契約が与えられる(森友学園、加計学園)。一方で、為政者の意向に従わない者は「情報当局の捜査の対象にされるか、スキャンダルをでっち上げられる」(前川前事務次官)。そして仕上げは、ライバルが自分と競争できないよう、憲法改正でナチスの「緊急命令発布権」に類する「緊急事態宣言の新設」へと進んでいく。

 ナチスとトランプ大統領、そして安倍内閣。いずれも選挙という民主主義の手続きによって誕生し、やがて思いのままの政治を行い、独裁者とも思えてしまう権力者となり、民主主義そのものを破壊するようになる。
私たちはその道の上にいるようだ。