鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

「『団結』と『多様性』の対立」 ~労働組合が直面する新たな課題~
2017/12/21

いまさら言うまでもないが、労働組合組織にとって不可欠と言われてきたことは「団結力」、「統一性」である。組合が何かを決めたときには、組合員にはその決定を守ることが最優先される。また、組合は絶えず世の中の矛盾に目を配り、組合員の生活環境を守ったり、改善していくのだから、当然のように抵抗や摩擦がある。それらの抵抗をはねのけるために、組合運動には揺るぎのない統一性を保っていく必要がある。「テンデンバラバラ」では成果は生まれないからだ。
組合がベースアップの要求を決めて会社側と交渉している際に、要求に異論の声を上げる組合員がいれば、交渉相手の会社側には、組合の主張への不信感や猜疑心がわき、要求に真剣に対応してこないのは明白である。
あるいはまた、組合のストライキに際して、ストに参加せず出勤する組合員がいては、その効果は半減するどころか、会社の主張に屈服するしかなくなり、闘争の継続も難しくなるだろう。
組合の団結力や統一性が重要なのはあらゆる活動に共通するのだ。

一方、近年は、人間一人ひとりの存在を尊重し重視すべきだ、あるいは、一人ひとりの国民が個性をもち、自分の存在に誇りを持つべきだといわれる時代になった。それが民主主義社会の証となっている(全体主義国家とは個人の存在よりも全体=国がすべてに優先する社会のことである)。

世界でも同様に、それぞれの国の違いを認め、相互に認め合うことが求められている。特定の国の価値基準を押し付けることも戒められる。企業社会にもその波は押し寄せている。ダイバーシティと呼ばれるように、さまざまな人間の存在を認め合うことから始まる。

人間とは保守的なのか、あるいはまた、もともと持っているといわれる「業」なのか、人種や民族、言語、宗教、政治・経済体制の違いなどから、自分たちとは異質なものを排除しようとしてきた。その歴史こそが戦争なのだ。

日本も戦前は、個人は国家に対して隷属するよう求められてきた。国家が最重要で国民は国家に従うよう強要されてきた。国家のために、国家の利益のために、人を駒のように扱った時代。まさしく全体主義国家だったのである。

当時の権力を持つ者にとって、好ましくない意見を言う人を一人の人間として扱わなかった。そして、もともと国家とは、社会秩序や公の名のもとに、ときに一人ひとりを大切にしないということをしがちなのである。
しかし、戦後の民主主義は、憲法においても、「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法13条)として、国が個人よりも優位に立つのを認めないどころか、国が国民を「個人として尊重」するよう義務付けている。

国民一人一人の違いを互いに認めあい、互いに尊重する社会になったのである。だから「個の尊重」とか「多様性を認め合う」というのは、人間社会が進歩したからであり、近代社会の必須条件でもあるのだ。それができなければ人間社会の存続さえ不可能になるということなのだろう。

もともと日本は島国で、似たような生活慣習でくらし、農耕民族として共同社会を形成し、「和をもって貴し」となしてきた。それだけに、個人ごとの違いを認める多様性とは全く違う価値観で暮らし、多様性とは全く遠い社会、すなわち多様性を認めにくい歴史を持ってきた。

この「個人の尊重」と「多様性」が時代の進歩であり正しいとしても認めることは容易なことではない。ましてや冒頭で掲げた組合運動が求めている「団結」とか「統一性」はまったく逆の概念に他ならないから一層難しいのである。しかし、まったく対立する概念をもつ労働組合は、手をこまねいて何もしなければ時代にそぐわない組織になってしまうのである。
「団結・統一性」と「個の尊重・多様性」という対立概念を、いかに整合性を図って運動を進めるのかを考えなければならない。

しかし時には、運動の発展のために「多様性」を否定しなければならないことも起きる。そうした際には、組合員に「なぜ多様性」を否定しなければならないかを丁寧に説明しておかなければならない。
今、長時間労働が問題になっている。各労働組合は残業を少しでも減らすために、「一斉定時間日」を設けているケースが多い。一週間に一日、曜日を決めて残業をしない日を決める。その日に職場に残っていれば組合の巡視で見つけやすい。注意を促して帰宅してもらうことができる。 
一週間に一日、残業なし日が実現し、従業員の残業削減に効果をもたらすことができるのだ。
しかし、ここでちょっと考えてみなければならないことがある。確かに残業の削減に効果があったとしても、従業員一人一人の都合を無視していることも起きてしまう。人によっては、「残業できない」あるいは「残業したくない」のは他の日で、むしろ「残業できないその日のために、今日は残業しておきたい」という事情があっても無視されてしまう。当事者にとっては、組合の方針は迷惑この上ないということで大いなる不満を抱くことになってしまう。
そこでこうは考えられないだろうか。個人ごとに事情があるのは当然だから、特定の曜日を決めずに、誰でも一週間に一度だけ「残業のない日」を作はればいいことにする。こうすると個人の事情に応じた残業の削減を図れる。しかし問題がある。残業をしない日を個人に委ねると、職場の雰囲気や上長の理解度によって、「帰るに帰れない」状況が起きてしまう。結局、「一週に一度の残業なし日」は有名無実、残業の削減は進まないことになる。
これは個人の都合を組合の方針より優先させたことによって起きたのである。「個の尊重」「多様性」によって組合活動が阻害されてしまうのだ。これをどう解決するのかである。

一斉定時間日を定める際に、組合員には、「残業を減らすために一週に一度の残業なし日を作りたい。本来であれば一人ひとりの都合で何曜日でもいいのだが、皆さんが職場の雰囲気がどうであれ、上長が何を言おうと、間違いなく守る」ことが約束できるのであれば、そのように決めるのだが、過去の状況を考えれば『個人の裁量に委ねたことで、結局、残業なし日は実現できない』おそれが多分にある。そのために、曜日を決めた『残業なし日』を設けたい」、と組合員に事前に説明しておくべきなのである。何も説明しないで、「組合がこう決めた」から守るように求める方法はやめなければならない。運動として正しい目的のために、時として「個の尊重」とか「多様性」とどう折り合いをつけるのか、それを自覚した運動をしていかなければならない。

【私たちは、自分が生きる日常世界に埋没し、それを自明視しがちである。しかし、ふと顔を上げて周囲を見渡すと、自分とは異なる他者とともにこの世界を紡ぎ出していることに気づかされる。国籍、人種・民族、世代、ジェンダー、文化、宗教、階層、身体的特徴など、一人ひとりが異なる条件を背負い、またそれぞれの個性を生かしながら生きている。この世界は無限の多様性に満たされている。
しかし、差異はしばしば衝突や対立を招くリスクを内在する。異質であるという理由だけで差別される人は少なくない。やはり異質性は共同性と矛盾するのだろうか。確かに相互理解は容易ではない。ましてや異質な他者を理解するのは難しい。異質な他者との共存可能性を問うのは素朴な理想主義であると批判されるかもしれない。
だが今日、私たちは流動性が高い時代を生きている。異質な存在を排除し、画一性を前提とする自己完結した閉鎖的なコミュニティーを想定すること自体が非現実的だろう。また、無知や不寛容に起因する偏見、自分が生きる世界を絶対視する偏狭な姿勢は、多様性の時代を生きる価値を破壊し得る。同質的な仲間と群れをなしている限りは安心感を得られるかもしれないが、未知の世界に触れることを回避している限りは新しい発見はないだろうし、人間的成長は期待できない。逆説的だが、異質な他者との出会いは、新たな自分を発見する契機になる。その他者とのコミュニケーションを通じ、多様性で満たされた世界とのつながりと自分の唯一性を確認することができる。異質性に対する寛容性は、相互承認の連鎖反応を触発させ、多様性の共存を可能にする。】(東海大学 本田量久 准教授)