鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

改善に厄介な複合社会
2018/03/21

成熟社会の特徴はいくつもあるが、もっとも顕著なことは複合社会であるという点である。

ある現象は一つの原因から生まれるものではなく、多くの原因がそれぞれに作用しあいながら結果をもたらす。

少年犯罪ひとつとっても識者が指摘するさまざまな要因、すなわち政治の貧困、教育の崩壊、経営者のモラルハザード、家族・共同体の崩壊…、このほかを含めて、おそらくすべての要因に原因があるのだろう。
問題はそのうちの一つだけが原因ではないことである。すべての要因が複雑に複合されて引き起こされているのである。だから、考えられるすべての原因を解決しなければ結果の解決には結びつかない。かりに他人のせいにしないで自分だけでも気をつけよう、直そうとしても、ほかの原因も解決されなければ一向に良くならない。結局は自分だけ努力しても良くならないのなら、「正直者が馬鹿を見る」必要は無いと考えてしまうから努力をしなくなってしまう。
誰もが何もしなければ事態はさらに悪化するしかない。その上に、「正直者が馬鹿を見る」社会は、人々にあきらめ、挫折感を抱かせ、それが無力感漂う社会風潮を醸成し、退廃した社会に突き進むことになるのである。
また、過度ともいえる情報の氾濫が追い討ちをかける。情報は多いほど勉強するためには好ましいと思われがちだが、情報の中身は玉石混交どころではなく、表面には顔を出さない意図を成し遂げようとする悪意ある情報すらある。いつの時代にも善意の顔、あるいは仮面といった方が良いかもしれないが、誰もが共感を覚える主張であるために正面きって反対が出来ない理屈で、ジワジワと人々の心を捉えることがある。そして気がついてみたら、これも「こんな筈ではなかったのに」という結果が起きてしまう。こうした論理は、よほど突き詰めていかなければ、真意が別のことを意図していたなどとはわからない。

経済がデフレで呻吟しているときに、多くの中小企業や労働者が倒産や失業の憂き目にあっている。「デフレ脱却」は誰からも共感を呼ぶし、正面切って反対できるものではないし、まったく正しい発言なのである。しかし、よくよく聞いてみると、アベノミクスのように、デフレ脱却のためには何でも許されるとばかり、税金を使い放題使って市場におカネをジャブジャブにさせる。株価さえ上がれば景気が良いと思われるとして、国民の大事な年金の財源さえ、国民の許しを得ないまま株への投機比率を上げ、結果として年金の行く末をギャンブルに委ねてしまう。
国際的な問題でも同じことが言える。核兵器反対には誰もが異論を唱えられない。みんなが思っていることであり正しい主張だからである。

ところが国際政治の政治力学に従えば、民主主義の国ほど国民の声は政治に反映される。いやむしろ国民の声を政治に反映しなければ政治家は選挙で当選出来ず、政党も多数を制することが出来ない。

しかし、もう一方の核保有国が全体主義国家である場合は事情を異にする。まず国民自体が「核兵器に反対する」声を挙げることができない。中国の天安門で、ロシアの赤の広場で、北朝鮮のピョンアンで、声を上げればすぐに警察につかまってしまう。
この力学から考えると、仮に一方の全体主義国家を支持する人間が、民主主義国家内で反対運動を行えば多くの支持を得て政治家や政党の政策に影響を与えられる。国民の声によって政策が変わるのは民主主義国家だけだからだ。
反対に全体主義国家では従来どおりの政策がまかり通ってしまう。その結果として、一方の全体主義国は引き続き核兵器を保有し軍事力で優位に立ち、民主主義国家は「核兵器反対」の道を進んでいく。このように、「核兵器反対」という誰にも反対出来ない善意の主張をしながら、その仮面の裏で、政治力学から来る結果を計算して行動しているとしたら、私たちが見抜けない限り真意とは異なった結果をもたらしてしまう。

あるいはそうした意図がなかったにしても、国民の善意は見事に他国に利用されることになる。だから私たちはあらゆる主張の一つ一つについて、国内的にも国際的にもその主張がもたらす結果を検証し、それを承知した上で「核兵器反対」を主張するべきなのである。

一方、戦争は「不信」や「憎しみ」の連鎖、「経済的利害」、「宗教対立」、「民族対立」などを理由として起きることが多い。それらの要因を一つ一つ克服していかないと、戦争の危機からは逃れられない。かつての日本が、中国への侵略を理由に国際連盟から非難され、石油禁輸の制裁を受けながら、「窮鼠猫をかむ」とばかりに太平洋戦争に突入した過ちが当時の国民に支持されたのも、「不信」「憎悪」の連鎖という国民感情に裏打ちされていたともいえるのだ。
長い間組合運動を続けてきた者として、この社会の中でどのような社会人であればよいのか、家庭ではどのような父であり、母であり、息子であり、娘であればよいのか、21世紀をどのように考えて生きればよいのか、あるいは自分たちが進めてきた組合運動に責任はないのか、家庭生活や政治や教育と組合運動は関係あるのか、そうした思いを考え続けてきた。

そこには組合運動家としての自戒の念だけではなく、世の中のすべての団体や個人が、今一度自らを振り返り自己改革の必要性に目覚めてくれればとのささやかな想いを込めている。
そして私は、21世紀が多くの国民の善意と期待に支えられた輝かしい社会への世紀になるために、労働組合の役割こそが最も意味を持っていることを確信している一人なのである。

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よく動物の世界や植物の世界における生態系と人間社会の現実とを比較して、いかに人間社会が無秩序であるかを耳にすることがある。確かにそうした見方が出来る現象もあるが、果たして人間と動物との決定的な違いとは何なのだろうか、ふと考えるときがある。世間では生活が豊かになったせいか、

それとも他人との協調に神経を費やすことに疲れたのか、動物が可愛いだけからなのか、とにもかくにもペットを飼う人が増えている。デパートやスーパー、あるいは町のペットショップと一種の流行のようでもある。個人的な経験で言えば、昔は童心からくる可愛さだけの欲求でペットを親におねだりしたものだ。その動機はともかく、ペットを飼ってみるとその仕草が人間に近ければ近いほど、親しみを覚えるような気がする。人間とは違う生き物としてみているがゆえに、自分に近い仕草がたまらなく可愛さを感じさせてくれるのだろう。ペットを自分の子どものように可愛がるといっても、その根底に人間と動物とは違うという潜在意識が存在することによって「可愛い」という感情が生まれるような気がする。

人間と動物の違い。実は「人間が人間である」ことの意味こそが、社会生活や組合運動にとって本質的な問題を投げかけている。
アメリカの心理学者、マズローはいう。人間の本能・意識はその生活レベルの変化によって段階的に変化する。人間が神から与えられた本能、食欲・物欲・性欲が生活水準の向上によってどのように変化していくのか。学問的な区分は省くとして単純に言えば、第一段階は「生きるため」の欲求であり、それが満たされれば第二段階「その量と質」を求める。そして次は、ここからが動物と人間の決定的な違いとなる。欲望の量と質がある程度満たされれば人間の欲求は精神的価値にシフトする。自分の存在価値や生き甲斐とか働き甲斐に価値を見出すのである。
マズローは「仕事が無意味であれば人生も無意味なものになる」と喝破する。

今、日本は「物欲」だけで満足する世界から、社会から「自分の存在を認めてもらえる」というように、「精神的価値」が重視される時代に入ったのは間違いないようだ。そんな目で組合活動を見つめ直してみたらどうだろうか。