鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

「安倍内閣の『傲慢』や『たるみ』は当たり前」 ~国会の絶対多数が権力者のウソを許し品性を貶める~
2018/06/21

5月は米朝会談をめぐる両国首脳の発言にほんろうされた月でもあるし、森友学園、加計問題で廃棄したと虚偽の答弁がされてきた新たな資料が見つかったし、日大のアメリカンフットボールでの反則行為に対する選手と監督コーチ幹部の意見の食い違いなど、事の真偽をめぐる論議が続いた。
目まぐるしく変わる米朝首脳の発言も、外交をめぐる駆け引きだと指摘するが識者の発言があるし、森友学園、加計問題では公文書を改ざんしたり、廃棄するという前代未聞の出来事が起こり、政府首脳の関与がますます強まっていく。アメフトの事件では、二十歳の青年の態度が立派で、関係者の大人の発言には疑問が呈されている。

自分たちとは遠く離れた場所や立場でのこうした出来事は、私たちにはメディアを通してしか知ることはできない。しかし、共通していることは、誰かが、あるいはどちらかがウソをついていることである。
世界にはさまざまな調査があるが、権力者のウソについて面白い調査を引用した記事を目にした。健康社会学者である河合薫氏によれば、権力者が度々ウソをつくことは、世界の膨大な研究結果が一貫して証明しているとして、次のように述べている。

【なぜ、権力者はのうのうとウソをつくのか? なぜ、権力者に従ってしまうのか? について、説明しておく。
まず、 私たちは一般的に、「ウソをつき、責任を回避すると、イヤな気持ちになる」と考える。ところが、ウソを貫き通すことができると、次第に“チーターズ・ハイ”と呼ばれる高揚感に満たされた状態に陥り、どんどん自分が正しいと思い込んでいくのだ。
権力者の周辺に漂う「もの言えぬ空気」が、権力者の権力を助長し、やがて権力者自身がルールとなり、彼らは「このウソは必要」だと考え、正当化する。その確信が強まれば強まるほど、チーターズ・ハイに酔いしれ、共感も罪悪感などいっさい抱かない「権力の乱用」が横行するのである。 彼らには危機感の「き」の字もない。あるのはウソの上塗りのみ。】(5月29日付「日経ビジネスオンライン」)

さらに、権力に屈し、不正を犯してしまう心のメカニズムについて、「ミルグラム実験」、別名「アイヒマンテスト」といわれる調査を引用している。この調査は1963年、米国の社会心理学者スタンレー・ミルグラムが、ホロコーストで起きたメカニズムを理解するために行った実験だそうだ。

いまさら言うまでもなく、調査の別名に冠しているアドルフ・アイヒマンは、ナチスの親衛隊将校で、数百万人ものユダヤ人を収容所へ移送し、虐殺した人物であったが、戦争前は平凡で普通の市民であったことから、多くの研究者が「残虐行為の謎」を解こうと検証を試み、その1つが今回引用されている「ミルグラム実験」と呼ばれるものである。今も「権威者に従う人間の心理」を理解するための模範的な社会心理実験として評価されているという。

【どんなに「自分は不正なんかしない」と思っている人でも、極度のプレッシャーに「不安」という心理状態が重なったとき、不正の罠にはまる。他人からみればたいしたことじゃなかったり、後から考えると他愛もないことでも、その渦中にいるときには、過度のプレッシャーに押しつぶされそうになり、つい境界線を越えてしまうのだ。だって、人間だから。】(同上)

こうした問題でのキーワードは、誠実や責任などに裏打ちされた「人間の品性」のように思える。 典型的なのは公文書の改竄である。また、あるはずのものをないと言い、ないと言っていたものが出てくる。今や政治の世界では、文書だけでは証拠とはならない。最初は文書が出てきても、「怪文書」と切って捨てられ、後から出てきてもはぐらかしてしまう。ならば「何事についても録音」していても、決定打とはならない。国会が与党の絶対多数のもとでは何を言っても多数決の前に抑えられてしまう。ならば与党の自民党や公明党の中の良識派に望みを抱いても、多くは権力者に唯々諾々と従っているだけの議員でしかない。

まさしく「権力者の周辺に漂う『もの言えぬ空気』が、権力者の権力を助長し、やがて権力者自身がルールとなり、彼らは『このウソは必要』だと考え、正当化する。その確信が強まれば強まるほど、チーターズ・ハイに酔いしれ、共感も罪悪感などいっさい抱かない『権力の乱用』が横行する」という指摘通りのなのである。

「記憶の限りでは会っていない」と言う官僚がいると思えば、傲慢にも「あるはずのものも無い」と言うし、財務省トップのセクハラでは、当事者は見苦しく弁解し、薄ら笑いを浮かべる財務大臣がいて、抗議する女性議員には「セクハラとは縁遠い方々」と嘲笑する議員すらいる。

そこには、常識や人の道、倫理、国民の代表としての品性のかけらもない。そこにあるのは、何をしても絶対多数の力で、仲間内をかばい合い、証拠が出てこなければ隠し合い、そして野党議員が指摘すれば揶揄する。

そんな世界では安倍首相の言葉がいかに空虚に響くことか。
安倍首相いわく、 「信なくば立たず」、「しっかりと、丁寧に、謙虚、真摯(しんし)、うみを出し切る」、「女性活躍社会を目指す」etc。
「信なくば立たず」という口の先から、愛媛県の文書に安倍晋三首相と「加計(かけ)学園」の加計孝太郎理事長が2015年2月に面会していたと記されていることが明らかにされた。菅官房長官は記者会見で、「入邸記録は業務終了後速やかに廃棄される取り扱いとなっており、残っているか調査を行ったが、確認できなかった。残っていなかった」と述べた。面会記録やスケジュール表も「ない」とした。

それなのに、首相は「ご指摘の日に加計理事長と会ったことはない。念のため、昨日、官邸の記録を調べたが、確認できなかった」と記者団に説明する。官房長官が「入邸記録は破棄されている」としているのに、「記録を調べたが確認」しようがないではないか。それなのに、平然と「確認できなかった」と主張する。

口先のまやかしとばかり、メディアも疑問を呈する。2014年3月21日、タモリの「笑っていいとも」に出演した安倍首相は、「役所の人たちでも、あれ(新聞の首相動静)に載るのはだいたい局長以上なんですよ。それより若い人たちもいっぱい来てるんですがね名前出ないですから。秘書官とか官邸のスタッフでも名前の出る人と、ある程度の一定以上しか出ないもんですから、実際はもっともっと沢山の方々とですね会ってます」と自慢している。

また、出席した会談そのものをオープンにするかクローズにするかについても、取捨がなされているという。

安倍内閣を支持している人も、支持していない人も、その国を体現している政治の世界に「人としての品性」がなくなり、【権力者の周辺に漂う「もの言えぬ空気」が、権力者の権力を助長し、やがて権力者自身がルールとなり、彼らは「このウソは必要」だと考え、正当化する。その確信が強まれば強まるほど、チーターズ・ハイに酔いしれ、共感も罪悪感などいっさい抱かない「権力の乱用」が横行するのである。 彼らには危機感の「き」の字もない。あるのはウソの上塗りのみ。】という状況だけは戒めなければならないと思うのだが・・・。

なぜこんな日本になってしまったのか。思案に暮れる中であることに気づく。

そうだ、【「野党がだらしない」と自民党に圧倒的多数の議席を与えてしまったのは、ほかならぬ私たち国民だった】のだ。