鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

少数の適者は栄え、多数の劣者は淘汰される 2-1~ダーウィンの進化論を悪用する人々~ vol.96
2015/04/15
 科学の進歩は想像を絶する。この地球や人類の誕生、それが過去数万年、あるいは数十億年前の出来事であっても明らかにしてしまう。中でも人類の誕生やその後の進化を明らかにしたダーウィンの進化論は、一部頑強な宗教集団が否定しても、多くの人々の納得を得て人類普遍の原理として輝きを放っている。

 この進化論を証明するものとして挙げられるのが、今さら言うまでもないがガラパゴス諸島の生物類といわれる。南米大陸のエクアドルから約900km離れたガラパゴス諸島では、他に類のない生態系が存在している。

 1835年、このガラパゴスをダーウィンが訪れ、イギリスに帰国後、生物のタネは変化するもの、すなわち、「環境変化に適応するものが生存できる」という進化論が生まれたとされる。

 このように、進化論は生物だけのものと考えられていたが、実はビジネス界にも広く使われている。世界の進歩の中で、陳腐化した日本製品が、「気がついた時には世界の中で取り残され淘汰されてしまう」現象を、ガラパゴス化というそうだ。

 製品の寿命ということなら何となくわかったような気になるが、これが人種とか、労働や生活にも使われるとなると首をかしげたくなる。まさか人間社会には応用できないと思っていたら、とんでもない考え方が生まれていたのである。

 人間社会も「適者のみが生存できる」という考え方である。これはイギリスで生まれたものだそうだが、かつてはナチス・ドイツの人種差別にも使われたし、今日ではアメリカ型経済社会の政策に使われるようになった。そしてそれが日本にもしのびよる……。

 ある国がある。その国が多民族国家であれ、単一民族国家であれ、一人ひとりの人間の中には遺伝子がある。民族が退化するというのはどういうことか分からないが、ともかく民族の退化を防ぐために劣った遺伝子を持つ人を減らし、優れた遺伝子を持つ人を増やすべきだと考えるらしい。この不良の遺伝子を持つ者を排除し、優良な国民のみを残して繁栄させるという思想を優生学という。

 もうお分かりになるだろうが、この優生学の立場に立つと、障害者差別も人種差別も正当化できるのである。インド・ヨーロッパ語族の諸言語を使うすべての民族は、共通の祖先アーリア人から発生したものとする学説がある。

 ドイツでは作曲家ワーグナーなどがこのアーリア学説を肯定し、ドイツ人が最も純粋なアーリア人の血を引く民族であると主張した。この考えをナチスが利用、ユダヤ人は劣る民族だから排斥するとして、有名なアウシュビィッツのホロコーストという大量殺人を正当化した。

 このような「適者生存」の考え方は、弱者の切り捨て、優勝劣敗の論理の根幹をなすもので、とくに勝者が使いたがる。

 アメリカのクリントン政権時代に、政権の中枢にいたライシュ労働長官は著書『勝者の代償』中で、アメリカの経済社会は現在の不平等を正当化させるために、一世紀以上も前に流行った「社会ダーウィン主義」を利用していると指摘している。その中で強調されるのは、【貧者も失業者も落ちぶれた人も助けなくてよい、そんなことをしても彼らの怠惰を助長するだけだ、金持ちを優遇し貧者を懲らしめさえすれば、アメリカは強くなるというのだ】という。アメリカのオバマ政権がめざした国民皆健康保険に対する保守層の抵抗の凄まじさもこの思想に基づくという。

 こうした結果、アメリカの所得格差は広がる一方となった。【1980年にアメリカの大企業の平均的なトップは労働者の40倍を稼いでいたが、2000年末には400倍を上回る様になった。先日新聞を読んでいたら、アメリカのCEOの上位20人の平均年収は1億5千万ドル(180億円・1ドル120円レート)と出ていた。アメリカの所得上位1%の人の所得シェアは実に18%に及んでいる。】

 アメリカのCEOは以上のような膨大な報酬を得るために、従業員を解雇し、社内福祉を大幅カットしたりして、業績を上げるためと称し従業員に犠牲を強いる。そして自らもCEOのポストを守ろうと働き続ける。だから高い賃金をもらっても良いと考えるというのだ。

 ところが、富める者は税金を納めて、貧しい者のために使われるのに反対する。健康保険も貧乏人と一緒では割が合わない。金持ちだけの保険で高度の医療を受けたい。年金も同じように考える。まさしく勝者の論理だ。

 アメリカのことはこのくらいにして、さて、日本はどうなのだろうか。所得格差には社会的な格差と、社内の格差がある。近年問題になっているのが社内格差といわれるが、一部大企業ではアメリカほどではないが、トップの年収は億単位を記録するようになった。ここでは社長の年収を云々するのが目的ではないので詳細は省くが、前述したアメリカ型経営に追随する日本企業と日本社会の行く末を心配するのである。

 先のライシュ氏は、アメリカ企業の中で、「その仕事を終わらせれば成果が上がったとして年収が上がる。一方、家庭では子供の誕生日だから早く帰ることを約束している。この場合、どちらを優先するかが問題になる。仕事を優先しなければ他者に後れをとり、出世や年収増が望めなくなる。やむを得ず仕事を優先させる。その代償として家庭が崩壊する。それを当たり前とするか、改善したいと思うのかが問われている」と警告している。

 その根底に流れる考え方は、家庭を犠牲にしても仕事を優先しなければ「企業では適者でなくなる」ということであり、淘汰されてしまうのである。アメリカ社会は急速に労働時間が長くなった理由の一つだ。

 日本でも導入を国会で提案されているホワイトカラ―・エグゼブションは、まさに「成果を上げなければ……」淘汰されるシステムでもあるのだ。

 アベノミクスという経済政策は、2007年に、第一次安部内閣の労働規制の緩和を主張していた規制改革会議の基本理念をそのままなぞっている。規制改革会議の委員の発言を読み直してみよう(東洋経済オンライン・2013.3)

【この会議で方針をまとめる中心となった委員は、当時こう語っていた。「たとえば最低賃金制度が効率性をゆがめる影響はあるに決まっている。影響はあるのだから制度は不要であり、世界中で導入されているのだとしたら、それは世界中が間違っている。日本だけは正すべきだ」。解雇規制を緩和したうえ、労働者派遣を完全に自由化したら「どん底への競争」になるという主張に対しては、「それで何が悪いのか。路頭に迷うのと、せめて派遣で働けるのと、どっちがいいのですか」。これが当時の安倍政権の下で認められた労働規制改革の思想・方向性だった。】

 そして、派遣労働者の規制を撤廃する、同時に、「長時間労働対策として画一的な労働時間の上限規制を設けることは、逆に『長時間働きたい労働者の利益を損なう』」として、ホワイトカラー・エグゼンプション制度の導入などを提言していた。

 日本も富の格差が広がっている中で、「どんな劣悪な労働条件でも働けるだけ幸せ」という考えは、まさしく「適者は生存できる」が、「劣るものは淘汰される」代表例だ。なぜなら劣るものは、「適者になる能力をもっていない」から、相応の処遇で我慢するべきだということになるからである。

 市場をおカネでジャブジャブにし、そのおカネで株を買わせ、株高の恩恵で収入が増えた一部の人が、喜んで高額商品の消費に走る。そういう人々は現代の日本では適者となる。まじめにコツコツと汗を流して働く人々は、物価上昇による生活に汲々としていなければならない。劣者だからである。

 どこかがおかしくなっている。はじめはわずかな変化だから気にしないでいると、気がついてみたらとんでもない社会になっているかもしれない。

 ぬるま湯に入ったカエルが、気がついてみたら熱湯で死ぬ羽目に陥る。社会に蔓延するわずかな格差、「わずかだからいいや」と、その積み重ねが取り返しのつかない格差につながっていくのだ。そんな社会にしてはならない。