鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

少数の適者は栄え、多数の劣者は淘汰される 2-2 ~貧困率が遂にOECDで4番目に高くなる~ vol.97
2015/05/15
 年金財源を国民の意見も聞かずに株の投機に使うようにしたのも、ひと儲けに賭けるアベノミクス政策の一つであり、当然のようにカジノ容認に行きつく。株が暴落すれば年金は財源難に陥る。こうした政策はコツコツと汗を流して正直に働くことが評価されない社会を招き人々の心を蝕んでいく。

 とくに前号でふれたように、経済に使われるようになった「適者生存・劣者淘汰」の論理は、私たちの働く環境条件を劇的に変化させようとしている。
ホワイトカラー・エグゼンプションの導入、解雇の金銭解決、派遣労働の制限緩和などで明らかになった。これこそが、アベノミクス政策の狙いなのである。

 こうした政策は、当然のように日本社会にとんでもない状況をつくり出し始めている。
厚労省の発表によれば、国民の所得を低い順に並べ、ちょうど真ん中の人の所得の半分(貧困線という=2012年は122万円)に満たない世帯が16.1%(相対的貧困率)に達し、これらの世帯で暮らす18歳未満の子どもを対象にした「子どもの貧困率」も16.3%となり、ともに過去最悪を更新した。

 この子供の貧困率が過去最悪の16.3%になってしまったため、あわてた政府は昨年の8月に「子どもの貧困対策大綱」(親から子への貧困の連鎖を防ぐため、教育費の負担軽減や親の就労支援などに乗り出す方針)を初めて策定し、その具体化を図るために、2015年4月2日に、自治体・財界・マスコミ界などの幅広い代表からなる「子どもの未来応援国民運動」の発起人集会を開いた。基金の設立など、この運動の趣旨には異論ないものの、何か順番が違うような気がする国民は多いに違いない。
つまり、一方で、子供の貧困層を生み出す「適者生存・劣者淘汰」の労働環境による貧困世帯を作っておいて、その結果招いてしまった子どもの貧困対策だからである。
日本は荒廃した戦後の混乱期を経て、その後の経済成長とともに貧困問題も改善し、1970年代以降には、国民の多くが「一億総中流」とよばれるまでになった。その後、バブル経済が崩壊した1990年代に入ると経済は長期に低迷し、リストラによる失業者の増加、さらに非正規社員が増加することで所得格差が拡大してきた。“勝ち組、負け組“という言葉が生まれ、「一億総中流」は過去の夢物語になったのである。
2000年代半ばの時点でOECD加盟国30か国のうち、相対的貧困率が最も高かったのはメキシコ(約18.5%)、次いで2番目がトルコ(約17.5%)、3番目が米国(約17%)で、4番目に日本(約15%)が続いている(貧困率が最も低かったのはデンマークの約5%)。このように日本の相対的貧困率は、2000年代中ごろから一貫して上昇傾向にあり、恥しいことにOECD平均を上回っている。

 また、親の経済的理由により就学困難と認められ就学援助を受けている小学生・中学生はこの10年間で年々増加しており,平成22(2010)年には約155万人になっている。この就学援助率も15.3%と過去最高を記録している。 
なぜこうも国内に大きな格差をつくり貧困層を作ってしまったのか。
その原因とされる「適者生存・劣者淘汰」の論理は、たとえば、今でも働き方として進めようとしている「不当解雇の金銭解決」にも顕著に表れている。
もともと企業活動における生産に必要な要素には、資本・建物・部品・材料などがあるが、これらを生産要素という。そして、従業員も同様に生産要素の一つである。しかし、学問上では同じ生産要素でも、「従業員は人間である」ことが他の生産要素とは決定的に違う点である。
人間だからこそ、生きていかなければならないし、ましてや在庫という概念もない。ところが、労働者を人間としてみないで、他の生産要素と変わらないと考えれば、ひたすら業績のことだけ考え、どんな働かせ方をさせようが、あるいは解雇しようが心に痛みは生まれない。解雇されるのは本人の能力がないからであり、淘汰されて当然なのだ。
この「適者生存・劣者淘汰」の論理は、ヒトラーの人種差別の根拠になったように、使用者側が考える基準に合わない労働者は「劣者」になり「淘汰」されていくのだ。

 日本は解雇しにくい国と言われてきた。解雇をめぐる法理には大きく違う意味を持つ2つの概念がある。
労働契約法による「解雇権の濫用の法理」は、「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合はその権利を濫用したものとして無効とする」(労働契約法16条)の条文の通り、すべての解雇の法的根拠のあり方を規定するものであり、より広い範囲で適用される法理である。

 これに対して、事業の継続が思わしくないことを理由に、事業の維持継続を図るために解雇する「整理解雇」に対しては、過去の「最高裁の判例による法的根拠」として「整理解雇の四要件」がある。
四要件とは、①経営上の必要性(客観的な経営危機が存在する)があること。②解雇回避努力の履行(解雇回避努力を尽くしたか)をしたか。③手続きに合理性(労働者・労働組合への事前説明・協議を行ったか)があったか。④人選に合理性(人選は公平に行われたか)があるか、というものである。
 これをみても解雇の基準がよくわからない。「客観的に合理的な理由」とはどういうものなのか分かりにくいし、「社会通念上」というのもはっきりしない。

 これだけあいまいな基準であれば、解雇された労働者は解雇を不当として裁判所に訴えることが多くなる。その裁判で「解雇は不当」と判断された場合に、元の職場に戻せないなら、金銭を払えばいいというのが、今回問題になっている「不当解雇の金銭解決」なのである。
確かに、裁判で「不当な解雇」という判決が出されたにもかかわらず、やむを得ない理由で元の職場に戻れないために、最後は金銭で解決せざるを得ない場合も多くある。しかし、だから、最初から「金さえ払えば不当解雇ができる」ということと、裁判を通じて会社側の不法性が明らかにされ、元の職場に復帰させるためあらゆる手を尽くした上で話し合うのとは根本的に違うはずである。
なのに、なぜそうしたいのか。理由は簡単である。「適者」でないから解雇したのであるから面倒な手続きを取りたくないということなのだろう。つまり、従業員を人としてみてしまえば、本人のみならず家族の生活はどうなってしまうのか、などに心を配らなければならないからである。単なる生産要素の一つなら、単純なコスト計算だけで済んでしまう。
また派遣労働者に対する見方でも同じことが言える。前号でふれた「首になるより派遣で働けるほうがまし」という主張も、自分たちの基準に合わないから「劣者」としてしまえば、「淘汰されるよりましだ」ということになる。

 日本中のすべての経営者がそうだとは思っていないが、一部にはグローバル化の名のもとに、あるいは、それが近代的経営にとって欠かせない方法だと主張する経営者や学者も見受けられる。そのように考えている人の意見を政策にしているのが安倍内閣なのだ。

 格差が日本より拡大しているアメリカでは、さすがに良心の呵責からか、自らの収入を以て従業員の処遇改善に充てると表明するCEOも出て来た。本来ならCEOに富が集中するシステムを改善するのが正しいのだが、それでも手元にある富みを手放す決断が評価されているようだ。
アメリカ型の格差を当然とし、公正さも公平さもない日本社会にしないために、労働組合は何をなすべきなのか。課せられた責任は重い。