鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

「産業革命遺産は労働運動の世界遺産 2の1」~軍艦島も、富岡製糸場も~ vol.101
2015/09/15
 富岡製糸場につづいて、19世紀後半から20世紀初頭に近代化を果たした日本の重工業の歩みをたどる製鉄所や炭坑など、福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、山口、岩手、静岡の8県の23資産が、韓国との調整に手間取ったもののユネスコの世界遺産に正式登録された。これで日本の世界文化遺産は15件目となった。

 今回登録となった「産業革命遺産」のうち、幕末に作られた韮山反射炉(静岡県)は、熱を反射させて高温で金属を溶かし大砲などをつくる炉である。高島炭坑(長崎県)は、明治期に栄えた海底炭坑の跡。かつては5000人以上が暮らしていて、鉄筋コンクリートの高層アパートが立ち並ぶ姿が軍艦に似ているため、「軍艦島」と呼ばれている。三菱長崎造船所(長崎県)の大型クレーンや八幡製鉄所(福岡県)の修繕工場など、今でも使われている施設が対象に含まれているのも特徴とされる。
 イギリスで始まった産業革命は、1700年代後半から1800年代半ばまでだが、日本の産業革命は1800年代後半からで、イギリスに遅れること約100年といったところである。先に世界遺産になった富岡製糸場は1872年の操業開始である。

イギリスも日本も産業革命は繊維産業から始まるが、動力としてのエネルギーの発展も連動していた。産業革命関連ということでいえば、繊維の富岡製糸場に続いてエネルギーの高島炭鉱(軍艦島)と続くのは至極当然のことなのである。
洋の東西の別はあっても産業革命の時代の労働は過酷を極めた。それによって労働運動は幕を開けたのである。
【大部分の人間は起きている間中、機械に縛られ、男も女も子供も、まことに恥辱的な条件のもとで1日16時間、週6日の労働を強いられていたのである。

 彼らは耳をつんざく蒸気エンジンとガチャガチャという機械の騒音、換気もない埃だらけの空気の中で、満足に息もできない状態におかれた。監視者は、最大限の生産を上げるべく、労働者を駆り立てた。製品に傷をつけたり居眠りしたり、窓の外を見たりすると罰せられ、おまけに彼らは、安全装置もないシャフトやベルトや弾(はず)み車の事故の危険、また職業病や疫病の恐怖に絶えずさらされていた。事故はしょっちゅう起こり、不具者になったり死ぬ者も後をたたなかったのである。

 しかし、これら工業化時代初期の犠牲者に対して、工場側はほとんど何の救助策も施せなかった。綿のようにくたくたに疲れて、労働者たちは窓もないあばら家へ帰っていく。7,8人で一つのベッドを使うということも珍しくはなかったし、そのあばら家の不潔さも恐るべきものであった。蓋もない溝に、ゴミや糞尿は垂れ流しにされ、家じゅうが悪臭フンプンとし、工場廃棄物は積もりに積もっていた。その中で病気が蔓延する。チフスやコレラが流行し、町で生まれた赤ん坊の二人に一人は、5歳を待たずに死んでいったのである。】(「エントロピーの法則 Ⅱ」J・リフキン)
【地方人口は都市に仕方なく流れていきました。彼らは都会で長時間労働と飢餓賃金という犠牲のもとに産業発展に一役買っていました。成人がこれらの長時間労働をしただけでなく、子供たちもそうでした。子供たちは、1日12時間以上も工場で働き、作業中眠って機械に巻き込まれ、身体を寸断されたのも珍しくありません。】(「民主主義とは何か、自由とは何か」B・ラッセル)

 イギリスではこれら過酷な労働環境の中で、労働組合が産声を上げ改善に取り組む。会社側との交渉を通じて改善に取り組むのと同時に、議会に対して法律で規制するよう働きかけたのである。労働組合の声は世論の支持を受け、議員もまた労働環境の改善に取り組み始めた。こうして作られたのが労働法となり、その後も経営者に理不尽な働かせ方があれば、法律を改め今日の労働法を作り上げてきているのである。
 日本もまた例外ではない。初めは工場法が作られ、改正に改正を重ね、現在の労働基準法などになっていくのである。だから労働組合法も、労働災害保険法も、今日でいう労働法は、すべて今日までの労働組合と世論が作り上げてきた歴史の集大成なのである。

 時々、組合員の中には、「自分は今の労働環境や処遇に不満はないから、労働組合の必要性も感じていない」という発言をする人もいるが、実は、「不満のない労働環境や処遇こそが、自分では必要性を感じていないと思っている労働組合そのものが作り上げてきた」ものであるから、労働組合の否定は今の自分が拠って立つ立場をも否定する矛盾を持ってしまうのである。まさに、天に唾する発言ということになる。

 産業革命に始まる労働法制定の動きは、労働組合が社会に訴えることに始まり、その訴えを世論が支持し、議会も世論に従って法制化を図っていった。

 だからイギリスの労働組合の運動は、議会に働きかける運動を重要視し、しかもそれが企業内にとどまらず社会福祉政策など、社会の主要な構成員としての活動に特化されたのである。それは必然的に、労働組合自らが政党を持つべきだということにつながり、1906年には、社会主義団体との間に設けた労働代表委員会を発展させ、イギリス労働党を設立した。

 イギリスに比べて日本の労働組合は、誕生した時期が終戦直後の混乱期の真っただ中であったため、組合員の仕事や生活確保が第一義になり、賃金の引き上げや一時金の獲得が中心にならざるを得なかった。そのために労働組合は「企業内=組合員の経済問題にのみ特化する運動」を作り上げてしまった。戦後の一時期から労働組合も政治活動に取り組んだが、政党による組合支配とか、あるいは、逆に労働組合が政党へ過度の影響力を行使するなどの問題を起こし、世論の支持を得られなかった。
片や自ら政党を作った労働組合、片や企業内ばかりに関心を持つ労働組合、というように、イギリスと日本の違いはこれほど明白なのである。

 遅まきながら日本の労働組合も立ち上がり、国民の圧倒的多数を占める雇用労働者のために政治活動の強化に取り組むようになり、ときには候補者を擁立するほどの発展を見せることとなったが、企業内にとどまった今までの運動の中で醸成された組合員の「政治離れ」の中で苦労を強いられている。
その苦労を避けていては何の進歩もない。政治活動の歴史的正しさや必要性を繰り返し組合員に訴え、理解を求めていかなければならない。この苦労を克服してこその労働組合である。

 このように新しく登録された世界遺産の原点となった産業革命は、イギリスにおいても日本においても、労働組合運動の原点でもあったのだ。だから、せめて働く労働者は、今回登録された世界遺産を観光するときに、こうしたことに思いをめぐらしてほしい。