鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

産業革命遺産は労働運動の世界遺産2-2 ~女工哀史、炭鉱の暴動~
2015/10/15
 さて、産業革命による過酷な労働環境は、日本も例外としなかった。産業革命をけん引した繊維産業、エネルギーの石炭産業における労働は日本でも過酷を極めた。

 【明治15年の調査によれば全国工場の52.5%は製糸工場で、全工場労働者の69%は女工、その約80%は製糸女工であったといいます。すなわちわが国の工場労働者の6割ないし7割は女工で、しかも圧倒的多数は製糸、紡績等における20歳前後の、心身共に未成年者であり、しかも14歳未満の少女が初めにはその1割を占めていたのでした。明治30年代のマッチ工場で軸並べに5,6歳の幼女をすら使用していたという事実はあまりに悲惨な話でありました。

 こうした女工は、ずっと朝の四時頃までも働きづめに働き、食事は燕麦(えんばく)のわり飯でありました。寄宿舎は監禁同様で外出の自由なく手紙も開封される有様でありました。その部屋の天井は極めて低く、一人当たり畳一枚になるかならずかで、夜具など薄くてとうてい我慢できないくらい、しかも逃走を恐れて部屋は外部から鍵がかけられ、そのため火事の際にも逃げられずついに焼死した例さえあるのが実情でした。そして外国綿業との競争上、賃金は極めて安いものであり、女工に対しては単に女なるが故に男工に対して6割位の賃金しか支払われず、しかもその大部分は食費として差し引かれてしまうのでした。】(「日本女性の生活史」樋口清之)

【明治~大正時代、信州へ糸ひき稼ぎに行った飛騨の若い娘達が吹雪の中を命がけで通った野麦街道の難所、標高1672mの野麦峠。かつて13歳前後の娘達が列をなしてこの峠を越え、岡谷、諏訪の製糸工場へと向かいました。故郷へ帰る年の暮れには、雪の降り積もる険しい道中で、郷里の親に会うことも出来ず死んでいった娘たちも数多い。この峠には「お助け茶屋」と呼ばれる茶屋があり、旅人は疲れた体を休め、クマザサの生い茂る峠を信州へ、飛騨へと下っていった。(中略)

 明治時代の生糸の生産は、当時の輸出総額の3分の1をささえていました。現金収入の少なかった飛騨の農家では、12歳そこそこの娘達が、野麦峠を越えて信州の製糸工場へ「糸ひき」として働きに行きました。そして、大みそかに持ち帰る糸ひきのお金は、飛騨の人々には、なくてはならない大切な収入になっていました。年の暮れから正月にかけての借金を返すためにも、あてにされたお金だったと言われています。(中略)

 信州の工場では、わずかの賃金で、しかも1日に13~14時間という長い時間働かされ、病気になっても休ませてもらえないくらい、厳しい生活だったそうです。さらに女工の寄宿舎には逃げ帰ると困るので、鉄のさんがはめられていました。】(ウィキペディア) 

 一方、エネルギー産業に目を転じてみると、当時のエネルギーは石炭だから、炭鉱が日本のエネルギーを左右していた。長崎県西部、西彼杵(にしそのぎ)半島に点在した海陸、島嶼(とうしょう)の炭鉱群を西彼杵炭田というが、代表的な炭鉱として高島炭鉱(軍艦島を含む)、池島炭鉱、崎戸炭鉱、松島炭鉱などがある。日本最古の大手資本による炭鉱だったが、エネルギーが石炭から石油に代わる影響から1986年(昭和61年)に閉山されている。

 これらの炭鉱は、あの長崎のグラバー邸で有名なグラバー氏が、幕末に佐賀藩と共同出資で採掘を始めた。明治に入り佐賀藩から後藤象二郎(後に逓信大臣などを歴任)が買い上げ操業を開始したものの放漫経営でうまくいかず、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎率いる三菱財閥に権益を譲り、本格的に採掘が開始され、一世紀以上にわたって日本のエネルギー経済を支え続けた。軍艦島を含む高島炭鉱では、過酷な労働環境が続き、日本初となる労働争議事件を起こしている。おおよその状況はこうだ。

 【高島炭鉱の労働力は囚人などの下層所得者を集めて働かせ、しかもその実態はタコ部屋などの封建的・非人道的な制度に支配され、一日12時間労働という過酷な労働条件、低賃金、重労働にもかかわらずほとんど手作業、「死んでも代わりはすぐ見つかる」といった認識がまかり通るなど問題だらけであった。そしてついに100人以上が参加した暴動がおこった。同社は、小頭・人繰と呼ばれて採掘現場を監督していた。彼らは少しでも怠ける者がいると棍棒で殴り、彼らにさからう者は、見せしめに両手を後ろへ縛り、梁に逆さ吊りにして殴った。また、脱島しようとした者は私刑にされた。郷里に手紙を出すことすら許されなかった。採掘場は坑内3-8kmのところにあり、狭い通路に身をかがめ、つるはし、地雷、火棒などで採掘し、これを竹かごに盛り、重さ56-75kgのものを、這うようにして担ぎ鉄道まで運んだ。
 1884年夏、この島にコレラが流行ったときは3000いた坑夫の約半数が死んだ。罹患者は海岸で焼却処分されたという。求人は他社を装って行い、汽船で拉致した。】

 【明治期に17件の争議が発生している。一連の争議はほとんどみな暴動化したが、ことに1883年(明治16年)9月のものは、7人の即死者が出るほど激しかった。高島炭鉱は、官営時代には囚人労働力を使用、1881年に岩崎弥太郎(やたろう)が買収してからは、「納屋(なや)制度(飯場〔はんば〕制度)」が広がって、人身的な隷属のもとで鉱夫に劣悪な労働条件を強いていた。これが一連の暴動の根本原因で、世間の注目を浴び、一大社会問題となった。ことの重大さに政府も警保局長を現地に派遣して実情を調査させた。その結果、鉱夫への暴力的拘禁の事実が明らかになり、以後一定の是正措置が図られた。】(ウィキぺディア)

 「人を人とも思わない働かせ方をさせる」ことが続けば、労働争議が自然発生的に起こるのは当たり前である。

 このように、産業革命の中心をなした繊維産業、石炭産業は、経済発展の原点としての功績と、そこに働く労働者に過酷な労働を強い、労働運動の必要性を世に明らかにした両面を持っている。世界遺産登録といった華々しいニュースの中に、労働者、労働組合、労働法と切っても切れない歴史の重みをもっているのである。