鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

「差別と格差と非正規社員問題」 ~性差別・年齢差別、貧困・身分格差~ vol.106
2016/02/15
 差別と格差、それに区別とはよく言われる言葉だが、その一つひとつは重要な意味の違いを持つ。社内の処遇一つとっても、差別があり、格差があり、区別がある。

 この言葉の違いを厳密に定義すると、差別とは、人間がいくら努力しても如何ともし難いもの、すなわち、男が女になること、女が男になることはできないから、この性をもって処遇に差をつけることは性差別という考え方だ。

 あるいは、人間は一年たつごとに一歳の年齢を重ねる。自分は努力したから二年間で一歳しか年を重ねない、などということはできない。努力しようがしまいが、誰でも一年で一歳年を重ねる。だから年齢で処遇に差をつけることは差別ということになる。これが年齢差別の考え方である。

 一方で、努力次第でなしうることも多い。たとえば学歴を考えた場合、今の社会制度の中では誰しもが義務教育から高校へ、高校から大学へ進学する選択はできる。そうした制度の中で、理由はいろいろあっても、個人の判断で進学を選択しているので、学歴による初任給格差は差別ではない。区別なのである。

 そして、差別ではないこの区別によって、あるいは能力の差によって処遇に差が生まれ、結果として富の蓄積に格差が生まれるのである。だから格差とは結果なのである。だからといってどんな格差も当たり前ということにはならない。背景にある社会の常識や倫理に反しないという条件がついている。社会全体の総意で認められる格差と、容認されない、非難される格差があるのである。

 さて、私たちが最初に遭遇するのは初任給である。初任給の金額は中卒・高卒・大卒で違うが、これは区別であって当たり前のことなのである。個人の能力は学歴では測れないという説もあるが、個人の能力は採用後の仕事によって判断されるものだから、採用前での判断は明確な個人の能力評価ではない。客観的にはっきりしていることは、学歴にはコストがかかっていることと、一般論として高学歴ほど、入社後の業務についての基礎知識が備わっており、入社後の期待値が高いのである。期待値だけではなく、実際の業務においても、能力はいかんなく発揮されている(例外はあるが)ので、学歴による初任給格差は区別の範疇に入るのである。

 時折、学歴別の生涯賃金の比較が発表されるが、これは学歴による賃金収入の集積の結果で格差といわれるものなのである。学歴差はその差が社会で相応であると判断されていれば、結果としての格差も容認される。しかしその格差が「いくらなんでも」と社会が判断すると、格差の生まれる理由まで検証されることになる。株の投機により「儲けた」場合でも、その才があったにしても少しでも社会に害があると判断されれば、当初の羨望から一転して非難の対象となってしまう。だから「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という名言も、謙虚であるべき人としてのあり方を問う警句でもあるのだ。

 日本は一億総中流という言葉で表わされてきたように、総じて格差のない国とされてきた。一時的には、大卒初任給と社長との賃金差も今ほど大きくなかったし、よく言われる年功序列型処遇も、長く勤めれば賃金が上がっていくのは当然という社会的風土があったがゆえに、当初は、若年者と高齢者、短期勤続者と長期勤続者の賃金に差があっても、それを不思議と感じることはなかった。

 貧しい時代には、多くの人が等しく豊かになることが必要であったから、査定などという概念を必要としてこなかったし、平等という考え方が大勢であった。しかし、ある程度の生活水準に達することにより、「同じ仕事をしていながら、賃金が年齢や勤続だけでこんなに違うのはおかしい」と感じるようになり、仕事の質と、それを成し遂げるために必要な能力、職務による賃金制度を求めるようになった。

 制度が確立すると、今度は「本人の能力」を評価すべきということになってくる。それが今日でいう、評価主義、能力主義の処遇制度へと変わってきたのである。
もともと、この社会において、「人間が他の人間を評価する」ことほど不遜なことはない。結果が数字で表れる出勤率などならいざ知らず、仕事を通じて個人の能力を評価することは難しい。そこにはどうしても査定する上司の感情や好き嫌いが入る可能性を100%除くことはできない。
「気性がさっぱり」した上司は、やはり「気性のはっきりした部下」に好感を抱くだろうし、そうした可能性があるから、査定は上司一人のみで行うのではなく、複数の人による様々な面からの検討が必要なのだ。評価主義とは、「評価される人」よりも「評価する人」のほうが難しいのだ。評価者教育が盛んな理由でもある。

 しかし、評価する人が、どのように客観的に正しく評価したと思っても、「絶対」とまでは言えない不安定さを持つ。だから、低く評価された人が不満を持つことは避けられないのだ。評価結果に対する苦情を吸収していくシステムがあるのか、苦情処理が十分に機能しているのかが大事なってくる。
複雑な人間社会においては、評価者が好き勝手に評価して、結果として処遇に差が生まれても、その時の社会の常識において許容されていれば大きな問題にはならない。

 ところが、多くの国民が、「いくらなんでも」と感じるほどの差が生まれると、それは「不当な格差」として世論の指弾を浴びることになる。
その典型が非正規社員制度である。国会で多数による横暴とも思える採決で可決した新しい派遣社員制度は、いつでも契約を解除される不安定な雇用形態をそのままというように、根本的な不正義を正すこともせずに、質疑の中でも、「多様な働き方ができるようになる」と強弁し採決してしまった。
正規社員になって働き方で制約を受けるより、自由に働きたいからと、派遣社員を選択している人ばかりなら「多様な働き方」でいいが、多くの人は、正規社員への道を閉ざされ、やむを得ず派遣社員を選択している人なのだ。その現状を「多様な働き方ができる」と切り捨てる神経は、「自分はそうでない」という差別意識に根差している。

 差別、格差が蔓延する社会では、日本が誇ってきた誠実な勤労観は生まれてこない。それを「一億総活躍社会」「頑張りが報われる社会の構築」などという言葉で糊塗しても、国民に無力感を抱かせるだけである。
なんでも平等であればいいとは思わないし、日本人すべてが同じである必要もない。しかし、制度そのものが不正義で、「いつでも契約を解除できる使い勝手さ」を理由に制度を温存し続ければ、やがて取り返しのつかない状況を招くのではないかと危惧する。

 現にアメリカの民主党大統領予備選挙では、アイオア州ではクリントン氏と比べて、知名度や政治実績、資金力などあらゆる面で見劣りするサンダース氏の支持が広がり、僅差まで追いつめた。米国内での所得格差の広がりを背景に、大企業や富裕層の対する「階級闘争」を叫ぶ急進的な主張が若年層に支持されているためという。その勢いはとどまらず、2月10日のニューハンプシャー州ではついにクリントン氏を上回って勝利した。

【米NBCなどがアイオワ州内で行った(1月)11日公表の世論調査では、45歳未満の世代では64%がサンダース氏支持で、29%のクリントン氏を圧倒している。草の根運動を担うボランティア運動員も増え、集会も連日、盛況だ。(中略)
サンダース氏の強さについて、バイデン副大統領は米CNNのインタビューで「富の集中から取り残された階層の切実な思いに応えている」と分析する。】(「読売新聞」1月15日朝刊)
貧困率が高くOECDで下から4番目と悪くなってしまった日本。貧困が貧困を生む。「貧しい家庭の子は学校へ行けずに、親と同様に所得の低い職業にしか就けない」という貧困の連鎖が始まっているとも指摘されている。
日本社会はどこへ漂っていくのだろうか。