鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

争う人は正しさを説く  正しさゆえの争いを説く vol.109
2016/05/15
 ファッション会社(アースミュージック&エコロジー)のテレビコマーシャルで流れた歌詞が頭をよぎる。宮崎あおいが富士山の麓で300人の女の子たちとともに立ち、中島みゆきの「Nobody Is Right」を熱唱するものだが、時は国会で集団的自衛権問題が論議され、自民党からはマスコミへの批判が高まっていた頃のことだ。どうしたわけか知る由もないが、このコマーシャルは突如流れなくなる。

 ♪争う人は正しさを説く  正しさゆえの争いを説く
 その正しさは気分がいいか
 正しさの勝利が気分いいんじゃないのか♪

 世の中で一番憎むべきことは戦争であることは誰もが否定しない。しかし、歴史を紐解けば分かるように、憎むべき戦争といいながら、人がこの世にある限り、国家がこの世にある限り避けがたいのも戦争のようである。人がこれほどまでに戦争を憎んでいるにもかかわらず、これほど多くの人が戦争の理不尽さの犠牲になっているにもかかわらず、である。

 人間に欲望、憎しみ、野心、宗教などがある限り、戦争はなくならないのかと暗澹となってしまう。

 戦争は誰しもが好まないものと思っていたが、どうもそれは現実の国際関係を理由に理想論として片づけられてしまうようだ。それでもやはり「戦争はしたくない」と思う。戦争の持つ非人間性に同意できないからだ。

 奇妙なことに、戦争によって科学兵器は進歩する。言葉を変えれば人類は人間を殺戮するために兵器と科学を進歩させるという悲惨な歴史も持っている。まさしく「♪争う人は正しさを説く  正しさゆえの争いを説く」ことが、人を殺傷する武器の開発を促進するのだ。
私たちは人類史上第一次、第二次という二度の世界大戦を経験した。どこの国も「自分が間違っている」などと言って戦争を起こさない。どこの国も、誰もが「自らが正しい」と主張して戦争を起こす。そして、いったん戦争を始めれば、戦争を早く終わらせるためと称して敵国に勝つために、次から次へと新しい武器を開発する。
北朝鮮を見るまでもなく、今までの歴史が示しているように、「自衛のために軍備の充実を図る」論理は自衛のためには相手と対等か、より勝る武器を持つことが肝要となる。だから必然的に核武装に行き着く。「相手がそうなら、こちらはこう」というようにだ。北朝鮮が核武装をするなら、それに対抗するために、韓国も核武装をすべきだという主張が韓国内の一部にささやかれているという。もし、北朝鮮と韓国が核武装したら、今度は日本でも核武装論が噴き出すことも懸念される。
現に、18日の参院予算委員会で、横畠内閣法制局長官は、核兵器使用について「国内法上、国際法上の制約がある」としたうえで、「憲法上、あらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されているというふうには考えていない」との見解を示している。
これを受けて政府は4月1日午前の閣議で、「憲法9条は一切の核兵器の保有および使用をおよそ禁止しているわけではない」とする答弁書を決定した。
日本においても核武装は憲法違反にはならないという見解なのだ。自衛のために、大量殺戮を目的とする核兵器を使用することが憲法違反にならないという理屈はまったく理解できないが、こうして一歩づつ、少しづつ戦争へと引っ張られる政治を恐ろしく感じる。
第一次大戦では、初めて航空機攻撃が採用され、第二次大戦では大量破壊・殺戮兵器である毒ガス兵器、核兵器を開発し、敵国民のジェノサイド(大量虐殺)に走るのが当たり前になった。無差別爆撃はもはや当然のことのようだ。
変化はまだまだある。太古の昔から戦いでは武器や兵糧の補給が極めて重視される。武士による戦国時代でも「兵糧の確保」が勝敗を左右するから、兵糧運搬部隊への襲撃や、城を取り囲み「兵糧攻め」の戦術が多く採られた。現代でも同様で、「戦場でない後方支援なら安全」という安倍政権の論理は、戦争当事国にとっては通用しない論理で、実際には後方支援も戦争に参加していることと同じことを意味する。
変化するのは武器や科学だけではない。国内では、戦死した兵士を補充するために徴兵制が導入される。戦争は国民を消耗品として扱うようになるからである。

 税制も戦争による影響を受ける。そもそも所得税は、戦費を調達するために権力者が利用した制度である。イギリスでは、1799年に、ナポレオン戦争の戦費調達のために所得税を導入した。アメリカでも所得税は南北戦争の戦費調達を目的にしたものであり、第一世界大戦時に本格的に導入された。日本では、1887年(明治20年)にドイツを参考に所得税が導入されるが、これも中国の「清」に対抗するための海軍の増強・整備を目的の一つにしていた。
このように戦争を始めると、各国とも戦費を調達するために国債を発行し、国民への課税が強化されるのである。戦争は国民を死に追いやる兵力と同時に、莫大な戦費を必要とする。

 そして、勝利を目指して戦うために挙国一致が必要になり国民が総動員される。そうはいっても戦争に反対する人々もいる。挙国一致を可能にするため、戦争を美化する教育統制が行われる。思想教育の結果として国内の異論(戦争反対)を封じるために、言論統制と言論弾圧が始まる。

 一般市民の生活が犠牲にされ、「欲しがりません勝つまでは」(ナチ・ドイツと日本の戦意高揚標語)と、国家権力の指示のもとに一般市民が「命」も「生活」も犠牲を強いられる戦争となる。そして、リーダーが戦場を駆けめぐる戦争ではなく、戦争を決断したリーダーは、遠く離れた安全な場所で戦争を指導する。
そして、戦争を始めた国が敗戦の憂き目にあうと、国民は国際世論からは「憎まれ蔑まされる」宿命を負うことになる。
冷静に考えてみよう。日本もナチ・ドイツも、戦争を始めたリーダーとそれを支持した国民はどのように生まれたのであろうか。ドイツでは第一次世界大戦のあとの混乱した時代に人々は救世主を求めた。そこに「祖国を導く男」としてヒトラーが登場し、ドイツ国民の熱狂的支持を得た。
日本社会は農村の貧困から人口対策として植民地(満洲)を求めた。そこに罪悪感はない。日本国民は、他国を侵略する戦争をドイツと同じように熱狂的に支持した。しかし国際世論は違った。圧倒的多数の国際世論の反対の中、日本は侵略の非を認めず「経済制裁をして日本を追い詰めた世界が悪い」として戦争の正当化を図り、国民もこれを支持した。
かつてドイツでは、「一つの民族、一つの帝国、一つの総統、一つのドイツ」をスローガンとして、ユダヤ人は忌まわしく汚れている、血なまぐさい獣であると、「適者は栄え・劣者は淘汰」される社会ダーウィン主義によって「ユダヤ人の大量虐殺・ホロコースト」を正当化した。そして、オリンピックを国威発揚の場に利用し、当初は国際世論をも味方につけた。「ドイツは世界一の繁栄、平和主義の国だ」(ニューヨーク・タイムズ紙)。

 権力者はこうした「空気」を作ることで、自分の野望を実現していく。最初から世界大戦を始めようとは言わない。徐々に、徐々に「空気」を作っていくのである。

 それはあたかも「ぬるま湯に入った蛙が、徐々に熱湯になることで最後には死に至る」姿と同じだ。徐々に作られる「空気」は、国民にわずかなことを黙認させることから始まる。「声を上げるほどでもない」と思わせ、その黙認の積み重ねによって「大きな過ち」を犯す戦争へと導くのである。

 今の日本を見るとき、私たちはその「小さな黙認」を繰り返してはいないだろうか。その黙認の積み重ねが行きつく先には何かが待っている。
今年は参議院議員選挙の年である。せめて労働組合は、「小さな黙認」を続けてはいけない。