鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

ラグビーとヒーローと刺青
2016/09/15

 昨年(2015年)10月、ラグビーワールドカップにおける日本チームの戦いに日本中が熱狂した。選手の帰国後、メディアはラグビー関連のニュースに多くの時間を割いた。

 思い出すのはNHKの中央番組審議会の委員の末席を汚していたころ、NHKが社会人ラグビーを歯牙にもかけない扱いをしていたことに異論を差し挟んだことである。2006年2月の委員会だったが、その時期、日本では社会人のマイクロカップ杯争奪(2015年のトップリーグはLIXIL CUP )のラグビーの決勝戦が行われていたのだが、当日夕刻のNHKのスポーツニュースではラグビーの「ラ」の字も触れることはなかった。
確かこんな発言をしたように記憶している。「マスメディアで取り上げることがスポーツの人気に比例するのはサッカーを見るまでもなくはっきりしている。ラグビーに人気がないから放送しない状況のままであれば、社会人ラグビーは永遠に人気が出ないままになるに違いない」という趣旨であったように思う。

 NHK側からは特段のコメントは出されなかったが、「社会人ラグビーは少数派のスポーツ」と言われているようで、釈然としないまま今日を迎えることになった。

 私がラグビーに関心を持つようになったきっかけは、ラグビーの持つ集団競技の魅力に気がついたころからである。世の中、多くの人が「オレが」「オレが」と競争心ばかりが目立つようになった中で、「ヒーロー」を「よしとしない」スポーツに魅せられたからのような気がする。
ラグビー評論家の向風見也(むかい ふみや)氏もコラムでこう指摘する。

【2015年の日本楕円球界が生んだ名言は、やはりこれだろう。「ラグビーにヒーローはいない」。
10月11日、グロスターはキングスホルムスタジアム。ワールドカップイングランド大会の予選プールB最終戦でアメリカ代表を28-18で下したのち、日本代表の副キャプテンだった五郎丸歩が発したセリフだ。白星を挙げながらも8強入りが叶わなかった悔しさで涙を流し、試合のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた感想を問われ、「ヒーローはいない」と返答したのだ。
裏を返せば「ラグビーはすべてがヒーローだ」と同義である。1つのトライ、1つのゴールキックの背景には細やかなプレーの堆積がある。それがラグビーの競技特性である】。

 個人単位の競技は別にして、集団競技であるにもかかわらず、得点をあげた個人が「見たかオレの実力を」とばかりに反り返る姿や、メディアもそれに同調して評価するスポーツに比べて、まさしく「ヒーローがいない」ラグビーこそが、日本伝統の「思いあがりを律し」、少し気障にいえば「一人は万人のために、万人は一人のために」を体現し、スポーツを通じて人のあり様を問うているように思えるのである。

 ワールドカップにおける日本チームの活躍をメディアが大々的に取り上げることで、ラグビー人気に火がついたのは喜ばしい限りだが、一過性で終わらないことを祈るばかりである。
しかし、メディアの過剰報道を目にするにつけ、メディアに翻弄され、ファンにちやほやされて実力と人気を混同してダメになってしまう選手が出るのではないかと、いらざる心配をしたりもしてしまう。

 今日のラグビーは、昔と違って優秀な外国人選手の活躍も光る。スポーツの国際化からも悪いことではないが、気になるのは外国人選手の多くが「刺青」をしていることだ。

 刺青の起源は、よく分かっていないようであるが、【日本の歴史を見ると刺青は、遣唐船の乗員、戦国時代の雑兵、江戸時代の罪人、という形で「この人物がどこの誰なのか」を分かるようにするため刺青が用いられていきました。江戸時代には罪人に刺青が行われた一方で、火消し・鳶・飛脚などが「粋」な刺青を入れる文化も発展していきました。
開国した日本は、近代化の波に押され、刺青を入れることを禁止し、厳しく取り締まりました。この歴史の影響が、現代まで続く「刺青・タトゥーは反社会的」と言われる理由の一つと言えるでしょう。ちなみに刺青という名称が用いられるようになったのも明治以降のことだそうです。
明治時代に行われた刺青の禁止令により、江戸時代には刺青を入れていた火消しなども刺青を入れなくなりました。結果として彫り師は仕事を追われるようになりましたが、暴力団において刺青の文化が廃れることは無かったようです。
 暴力団の構成員は「社会からの離脱」と「帰属組織への忠誠」を表すため、当時は一生消えなかった刺青を入れ、その「一生消えない」刺青を利用することで周囲を威圧しました。これが「刺青=暴力団」という現在の図式が出来上がるに至った歴史です。
ちなみに海外ではタトゥーが容認されていると勘違いしている人も多いのですが、日本が刺青に対して特に厳しいということはなく、世界的にも刺青を忌避する国は多い】(ウイキペディア)。

そんな中でも、ファッションの一部と称して刺青を入れる人が珍しくなくなってきた。「カッコイイから」などの理由を挙げて刺青をしてしまうようであるが、「若気の至り」で刺青を入れてしまったものの、3人に1人は刺青を消したいと思っているという。刺青は、入れるときよりも消すときの方が時間・費用がかかるとされ、傷跡を残さないのは不可能といわれる。

 私が育った世代は、「刺青=暴力団」の意識を持っている人が大半だった。だから、温泉で刺青をしている人と一緒に入浴したら、ヤクザではないかと恐怖感、嫌悪感、不快感を禁じ得なかったし、麻薬常習者で逮捕された元プロ野球選手の清原が、刺青をして暴力団とつながりがあったというのも、「さもありなん」と思える。だから暴力団関係者の入浴を禁止しているのは至極当然と考えているのだが、最近の外国人観光客の増大につれ、刺青をしている人の入浴禁止をやめる宿も出始めているようだ。そうした宿では日本人を差別できないから、暴力団関係者が入浴することも起こりうると思ってしまう。のんびりとお湯につかることができなくなってしまうのだろうか余計な心配をしてしまう。

 そうは思いつつも、1948年の軽犯罪法の改正により刺青に対する法的規制は解除されていることや、民族の伝統としてとらえる考え方もあることなどから、刺青を排斥する私のような意見にも批判が多いのは承知している。
 常識とは世の中の変化につれて変わっていくものだが、しかし、変化についていけないこともある。刺青をしていない外国人ラグビー選手ばかりになることはないのだろうか…

 刺青談義はこのくらいにして本論の結論を述べよう。
前述の向氏の言葉を借りてみよう。
【「1つのトライ、1つのゴールキックの背景には細やかなプレーの堆積がある。それがラグビーの競技特性である」。「ラグビーはすべてがヒーローだ」と同義である。】

 「一人は万人のために、万人は一人のために」を体現するラグビー精神は、労働組合運動の原点の精神にもつながっている気がするのだが…というのは我田引水なのかな?