鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.16 「怒る」 と 「叱る」
鈴木勝利 顧問
2009/04/15
 人間の感情が複雑微妙なのは誰もが実感している。今までも感情の綾(あや)らしき変化について述べてきたが、百万言の言葉をもってしてもなかなか言い尽くせないことでもある。前号の瀬戸内寂聴さんの言葉を借りれば、「人は死ぬために生まれ、別れるために出逢い、憎みあうために愛しあう」ということになるが、けだし名言だと思えるのだが、自分の気持ちの持ち方としてはなかなか難しいことだ。でも冷静に考えてみると、気持ちの持ち方によって人生は大きく変わっていくような気がする。悲しみに打ちひしがれているときにも、この悲しみの裏には喜びがあるのだと思えれば大いに気が休まるし、この人との別れも出逢いがあったからと言い聞かせられる。仲たがいをして憎らしいと思っても、愛する感情の裏返しであることにも気づくに違いない。

 しかし、人間のこうした微妙な感情も時間とともに移ろっていく。何かを成し遂げようと決意する感情も、上手く進まなければ時間と共に薄れていってしまう。そうした決意の時々刻々とした変化も、決意の動機となった感情によって時間差ができる。悲しいかな、以外に正義感から出た決意と、憎しみから出た決意を比較すれば、目的が達せなければ正義感はいつの間にか薄れるか、形をなくしていく。反対に憎しみから生まれる決意は以外に長持ちするのだ。自己嫌悪に陥ろうがそれが人間の業なのかもしれない。

 かなり前の話だが、子ども教育論が交わしているとき,
こんな話を聞いた。福島県の中学二年生の男の子の「父の涙」という詩である。

          「いつか僕が悪さをした時
          父は怒った
          本気でなぐった
          そしてだまって
          僕を見つめた
          その時見たんだ
          父の涙を
          僕は父にしがみついたんだ
          本気でなぐった
          父の胸に」

 自分のつたない経験から言えば、親として子どもの行為に反省を促そうとする場合、ついカァッとなって「怒って」しまうことがよくある。今になってみれば、カァッとなった時点で自分は感情に支配されていたということが分かるのだが、「後の後悔先に立たず」で反省も遅かりしという繰り返しだった。子供の過ちを冷静に注意することの難しさなのだが、親がカァッとなった瞬間、親も子どもと同じ感情に支配された位置に自らを貶めたということなのだろう。その際に、「怒る」のではなく「叱る」べきだったという反省にくれるのだが、「怒る」も「叱る」も同じ子どものためを思っていることは同じなのだ。しかし、「怒る」は感情、「叱る」は理性ともいおうか、子どものためにどういう態度をとればいいのかという尺度をあいまいにしたまま、ただ感情の赴くままに走っただけで、親失格の失意に沈んだものだ。

 こうした例は枚挙に暇はないが、この話にはまだ続きがある。詩にもある「なぐる」という行為だ。近年は教師も親も「なぐる」ことは暴力として非難される。「なぐる」行為そのものが「感情」の発露と思われるからのようだ。だから「体罰」という言葉で表現されているのだ。もちろん教師も、例え親であっても感情的になって子を「なぐる」ことは厳に戒めなければならないが、「痛い目」にあう事によって始めて間違いに気がつくのもまた人間であることを考えれば、理性によって「叱る」行為として「なぐる」ことは許されてもいいような気もするのである。ただ社会には大人の常識があったにしても、それが子どもにとっての常識とは必ずしも一致しないことが多いから、大人の常識と子ども常識が異なったときには慎重を要するのは当然だ。この両者の常識の違いで際立っているのが、よく大人が言う子どもの無邪気さ、純粋さであろう。大人が社会の常識の渦の中で見失ってしまいがちな純真さは、大人同士の会話の中では「青臭い論議」とか「書生論議」だとかで一蹴されてしまう。現在のようなある種荒廃した社会や政治や企業の中では、いまこそ「書生論議」が必要なのかもしれない。

 話を元に戻そう。今はもう自動券売機になっているから経験者は少ないが、昔は駅の窓口でそのつど切符を買っていた。窓口で「行き先」の駅名を言えば切符を出してくれる。しかし、正しいに日本語のレベルでいえば、「どこどこの駅迄の切符」というのが正しい。しかし、窓口では「行き先の駅名」さえ言えばいいという常識があるのだ。これが大人社会の常識なのである。ところがそうした常識を知らない子どもがいたとすれば、大人はなんと意味が分からない日本語を使い、しかもそれで切符が出てくることに合点がいかないのだ。

 今は話題にならなくなったが、昔、日教組が授業中のストライキを繰り返した時期があった。教師は労働者か聖職かという論議は別にして、組合の要求が通らなければ組合として争議行為は当然の権利であり、大人社会の常識としてなんら問題はないはずである。しかし、ストライキによって一時間目の授業が自習になって被害を受けるのは子供たちだ。子どもたちに見えるのは、自分たちの要求が通らなければ授業を放棄していいという先生の態度なのである。日常の生活で子どもたちが、自分の思うようにならない時に、親や教師や周囲にストライキ、すなわち、サボる、ふてくされる、抗議するという行為が許されると思い込む危険は十分に考えられる。もちろん争議行為は憲法で保障されていることであり、正しい行為なのだが、ここで考えなければならないことは、それは大人社会の常識であって決して子供たちの常識では理解できないということなのである。

 永遠のベストセラーといわれる「星の王子さま」は、大人と子ども違いを鮮明に描き出している。
 せめて世の親が、子どもの教育に悩む中から、感情の発露として「怒る」ことを戒め、まさしく子を育む(はぐくむ)理性を働かせて「叱る」ことによって、荒廃した教育の在り様を変えていってくれることを痛切に願うことしきりである。そして、労働組合運動としてリーダー間では当たり間のことが、関係者以外から見るとおよそ理解しがたい行為と移っていることはないのか。今年の春闘に限らず、いつも自分に言い聞かせながら組合運動も「書生論議」をする時代を迎えている気がするのだが。