今年の夏も、世の中、いろいろのことが起きた。やっと行われた総選挙によって、国民生活を破綻に招いた自民党政治は退出を余儀なくされ、地球温暖化と共に語られる異常気象なのか、豪雨による思いがけない被害に心を痛め、高校球児の爽やかさに熱き思いに浸る。かと思えば、麻薬まみれなのか芸能界の清純派女性タレントをめぐるマスコミの情報に振り回される。
社会に起きるさまざまな出来事を見るとき、それが自分の知らない遥か遠い世界の出来事に思えても、よくよく考えてみると、私たちの企業社会や人間の業ともいうべき中に、まったく同質の弱さや醜さが見えてくる。
今もって後を絶たない企業不祥事でも同様である。ある企業で不祥事が起きた際に、トップの責任者が出てきて「わが企業ではありえないこと」と否定することがまゝある。不祥事で被害を受けた人の証言が次々と語られ、やがて内部から事実が明らかにされる。いわゆる内部告発である。そうなると事実を否定する強弁はつづけられない。記者会見で深々と頭を下げて謝罪しても事は収まらない。「嘘をついた経営者」の烙印をおされ、辞任へと追い込まれていく。こうしたテレビ画面を幾度も目にしてきた。そのたびに、何で最初から事実を認めて謝罪しなかったのかと憤ることも多い。
冷静に考えてみれば、社会の常識どおりに行動すれば別な道が開けたはずであるにもかかわらずである。第一に、会社という組織である以上、トップが社内のすべてを知っていることはまれである。知らないことのほうが多いといっても良い。不祥事は有り得ないことではないのだ。不祥事の指摘があったときに、「自分の知らないところでは有り得るかも知れない」となれば、受け答えは違ってくる。組織の責任者とは、「自分の知らないことがあるかもしれない」という常識をもってさえいれば、不祥事の指摘にたいして否定だけに躍起になるのではなく、謙虚に調査した上で事実なら謝罪する姿勢を持てばいいのだ。繰り返していおう。責任者が組織内のすべてを知ることは不可能なのである。
第二は、「人の口に戸は立てられない」という常識である。消費者=国民の利益を最優先にする時代が始まっているのである。内部告発が奨励される時代だ。「告発」の語感に企業の利益を損ないそうだという一面があったにしても、昔の滅私奉公の時代とは違う。一人ひとりの従業員の、人としての正義感、あるいは「会社のため」には事実を明らかにすべきだという価値観を否定することは出来ない。不祥事がもし事実ならいずれは明らかにされるのである。
そうすると、不祥事への対応は二つの道からの選択になる。一つは、事実を否定することで隠蔽したまま終わらせようとする方法と、はじめから事実を認めて謝罪してしまう道のどちらかだ。前者は事実が明らかにされなければ波風が立つこともなく一件落着となる。そういう時はむしろ後者は「正直者は馬鹿を見る」として軽蔑されてしまう。でもこの選択は正しいのだろうか。この道を選択するケースはワンマン経営者に多く見られる。そして事実が明らかにされることで社会の強い指弾を受け、企業存続さえおぼつかなくなる。
実は、問題は選択肢の中身を間違えていることなのだ。「事実を明らかにしないまま終らせることができる」時代は過ぎ去ったのである。水銀の排出による「水俣病」事件のときに、当該企業の労使とも事実を否定してきた記憶は人々の心に生々しく残っている。昔は同種の傾向が一般的であった。しかし、今は違う。企業の中での出来事を外部が知るのも常識なのだ。私自身の経験をいえば、入社したての頃、社内のたとえボールペン一本でも外部に持ち出すのには良心との戦いがあった。それは泥棒であることへの良心の呵責であり、また、就業規則による懲戒の対象となる禁止行為であることを承知していたからであろう。「モノ」と同じように「情報」についても外部に知らすことへの抵抗があったのである。しかし、今はインターネットの時代、情報は四六時中、会社にいても家庭にいても身の回りに渦巻いている。時には仕事の都合でパソコンが会社と家庭を往復することさえある。そうした仕事の仕方を強制しているのもまた企業なのである。「情報」は「モノ」とは違い公私の境界をあいまいにする。会社(「公」)の中での出来事を「私」の分野で規制することは出来ない。むしろサービス労働のように、企業自身が公私の区別をあいまいにする方向に走っていることさえある。
すると、前にふれた二つの選択肢の中身が違ってくる。一つは、はじめに事実を否定して、後から虚偽の発言として謝罪する道を選択するのか、はじめから事実の可能性を否定せずに調査を通じて事実であれば責任を取るという姿勢でいくのかの選択である。答えは単純、明快である。後者であることは論を待たない。
企業のCSRとは、事実を隠すことではない。不祥事を起こさないことが最善であることは当然なのだが、もし起きてしまったときには、事実を正直に認めたうえで謝罪や責任を明確にし、再発しないように対策をとることなのである。その過程では、絶えず事実を隠そうとする人もいるし、そう願うトップも多い。組織のトップとは、周囲にイエス・マンばかりを集めてはいけないといわれるが、CSRの時代を迎えた現在、それは誤った判断を避けるためにも欠かせない組織的運営の在り方なのである。
さて清純派タレントの逃避行は社会に話題を提供し続け、悪しき夫に嫁いだ被害者像を、麻薬を常習とする悪女に変身させてしまった。いまさら「もし」もないが、もし素直に警察に出頭していたら、こんなにも悪女にならなくても良かったのにと、企業不祥事でシラをきる経営者像とダブって見えたりもしてしまう。でもシラをきりとおせると期待し、引くに引けない虚偽の世界に落ち込んでいったのだろうか。
「悪事を働いて露見しそうになったら隠そうとするのが人間なのだ」と嘯く著名な芸能人をテレビで目にするに及んで、芸能界が社会の常識とは無縁に存在する世界であることを改めて知らされた。罪は犯してはならないから犯罪という。しかし、もし犯してしまった時にはすぐに非を詫び社会の指弾も罰を受けなければならない。それが社会の常識であるはずなのだが、そうでないのが人間の業というのであれば、芸能界全体が非常識の世界に埋没していると見られてしまう。ほんの一握りの人の犯罪によって、その世界の関係者すべてが「同じ穴の狢」にされてしまう。せめて自分は、正直にがんばっている人にまでは累が及ばぬように、軽率な発言だけは戒めようと心して夏は終わった。
社会に起きるさまざまな出来事を見るとき、それが自分の知らない遥か遠い世界の出来事に思えても、よくよく考えてみると、私たちの企業社会や人間の業ともいうべき中に、まったく同質の弱さや醜さが見えてくる。
今もって後を絶たない企業不祥事でも同様である。ある企業で不祥事が起きた際に、トップの責任者が出てきて「わが企業ではありえないこと」と否定することがまゝある。不祥事で被害を受けた人の証言が次々と語られ、やがて内部から事実が明らかにされる。いわゆる内部告発である。そうなると事実を否定する強弁はつづけられない。記者会見で深々と頭を下げて謝罪しても事は収まらない。「嘘をついた経営者」の烙印をおされ、辞任へと追い込まれていく。こうしたテレビ画面を幾度も目にしてきた。そのたびに、何で最初から事実を認めて謝罪しなかったのかと憤ることも多い。
冷静に考えてみれば、社会の常識どおりに行動すれば別な道が開けたはずであるにもかかわらずである。第一に、会社という組織である以上、トップが社内のすべてを知っていることはまれである。知らないことのほうが多いといっても良い。不祥事は有り得ないことではないのだ。不祥事の指摘があったときに、「自分の知らないところでは有り得るかも知れない」となれば、受け答えは違ってくる。組織の責任者とは、「自分の知らないことがあるかもしれない」という常識をもってさえいれば、不祥事の指摘にたいして否定だけに躍起になるのではなく、謙虚に調査した上で事実なら謝罪する姿勢を持てばいいのだ。繰り返していおう。責任者が組織内のすべてを知ることは不可能なのである。
第二は、「人の口に戸は立てられない」という常識である。消費者=国民の利益を最優先にする時代が始まっているのである。内部告発が奨励される時代だ。「告発」の語感に企業の利益を損ないそうだという一面があったにしても、昔の滅私奉公の時代とは違う。一人ひとりの従業員の、人としての正義感、あるいは「会社のため」には事実を明らかにすべきだという価値観を否定することは出来ない。不祥事がもし事実ならいずれは明らかにされるのである。
そうすると、不祥事への対応は二つの道からの選択になる。一つは、事実を否定することで隠蔽したまま終わらせようとする方法と、はじめから事実を認めて謝罪してしまう道のどちらかだ。前者は事実が明らかにされなければ波風が立つこともなく一件落着となる。そういう時はむしろ後者は「正直者は馬鹿を見る」として軽蔑されてしまう。でもこの選択は正しいのだろうか。この道を選択するケースはワンマン経営者に多く見られる。そして事実が明らかにされることで社会の強い指弾を受け、企業存続さえおぼつかなくなる。
実は、問題は選択肢の中身を間違えていることなのだ。「事実を明らかにしないまま終らせることができる」時代は過ぎ去ったのである。水銀の排出による「水俣病」事件のときに、当該企業の労使とも事実を否定してきた記憶は人々の心に生々しく残っている。昔は同種の傾向が一般的であった。しかし、今は違う。企業の中での出来事を外部が知るのも常識なのだ。私自身の経験をいえば、入社したての頃、社内のたとえボールペン一本でも外部に持ち出すのには良心との戦いがあった。それは泥棒であることへの良心の呵責であり、また、就業規則による懲戒の対象となる禁止行為であることを承知していたからであろう。「モノ」と同じように「情報」についても外部に知らすことへの抵抗があったのである。しかし、今はインターネットの時代、情報は四六時中、会社にいても家庭にいても身の回りに渦巻いている。時には仕事の都合でパソコンが会社と家庭を往復することさえある。そうした仕事の仕方を強制しているのもまた企業なのである。「情報」は「モノ」とは違い公私の境界をあいまいにする。会社(「公」)の中での出来事を「私」の分野で規制することは出来ない。むしろサービス労働のように、企業自身が公私の区別をあいまいにする方向に走っていることさえある。
すると、前にふれた二つの選択肢の中身が違ってくる。一つは、はじめに事実を否定して、後から虚偽の発言として謝罪する道を選択するのか、はじめから事実の可能性を否定せずに調査を通じて事実であれば責任を取るという姿勢でいくのかの選択である。答えは単純、明快である。後者であることは論を待たない。
企業のCSRとは、事実を隠すことではない。不祥事を起こさないことが最善であることは当然なのだが、もし起きてしまったときには、事実を正直に認めたうえで謝罪や責任を明確にし、再発しないように対策をとることなのである。その過程では、絶えず事実を隠そうとする人もいるし、そう願うトップも多い。組織のトップとは、周囲にイエス・マンばかりを集めてはいけないといわれるが、CSRの時代を迎えた現在、それは誤った判断を避けるためにも欠かせない組織的運営の在り方なのである。
さて清純派タレントの逃避行は社会に話題を提供し続け、悪しき夫に嫁いだ被害者像を、麻薬を常習とする悪女に変身させてしまった。いまさら「もし」もないが、もし素直に警察に出頭していたら、こんなにも悪女にならなくても良かったのにと、企業不祥事でシラをきる経営者像とダブって見えたりもしてしまう。でもシラをきりとおせると期待し、引くに引けない虚偽の世界に落ち込んでいったのだろうか。
「悪事を働いて露見しそうになったら隠そうとするのが人間なのだ」と嘯く著名な芸能人をテレビで目にするに及んで、芸能界が社会の常識とは無縁に存在する世界であることを改めて知らされた。罪は犯してはならないから犯罪という。しかし、もし犯してしまった時にはすぐに非を詫び社会の指弾も罰を受けなければならない。それが社会の常識であるはずなのだが、そうでないのが人間の業というのであれば、芸能界全体が非常識の世界に埋没していると見られてしまう。ほんの一握りの人の犯罪によって、その世界の関係者すべてが「同じ穴の狢」にされてしまう。せめて自分は、正直にがんばっている人にまでは累が及ばぬように、軽率な発言だけは戒めようと心して夏は終わった。



