日本の自殺者はついに11年つづけて3万人を超すことになった。警察庁から発表されるたびにマスメディアも大きく取り上げ、識者なる人の談話が紙面を飾る。とくに経済状況の悪化と自殺者数は相関関係を示すといわれるが、昨年のリーマンショックまでは、世の中そんなに不景気で今日ほど八方塞の経済状況であったわけではない。
浅学の身であれこれ言う資格はないと思いつつも、本稿の12号でもふれた「複合社会」の難しさを痛感させられる出来事である。およそ人の心の中を、他人が知る由もない。しかし人間社会というものは、さまざまな出来事の意味を考え、その中から社会の慣習や制度、あるいは考え方などを修正しながらつづいていく。自殺者が多い日本社会を、正常な社会に戻そうとする思いからであれば、他人には分からない人の心であっても、あえて故人の尊厳を傷つけないように詮索するのも有益かもしれない。
識者の意見も千差万別である。自殺の理由も遺書が残されていればはっきりするものの、多くは推測の域を出ない意見になっているようだ。前述した経済上の理由もあれば、家庭や学校、家族関係、恋愛、会社の人間関係というように、一つの理由に原因を帰すること自体にも無理があるような気がする。本人自身の人生観や性格も影響することもあるし、推測である限り自殺の原因になる要素は無限かもしれない。さまざまな要因が複雑に関係しながら、本人の意思や行動につながっていく。まさに複合した結果なのだろう。
こうして巷間交わされるさまざまな意見を聞く中で、自分が同調できる意見は、いつも心の中に抱いている自分の価値観のようなものから見出しているのだ。
それが価値観といわれるほどのものかは別にして、人は自分の存在や役割に価値を見出しているときは、自ら命を失う道は選ばない。それだけ人生において「生き甲斐」や「やり甲斐」を感じることは重要なことなのだ。
この社会に労働者が生まれてから多く語られてきたことは、「労働」そのものをめぐる論争である。「労働」を好まざるものとして位置づける考え方と、むしろ人生そのものとして位置づける考え方の間で交わされている。会社に勤め、毎日働いている中で、「働くこと」を「好ましからざる」ものとして受け止めれば、私たちはいつも被害者であり、人生そのものを否定することにも通じてしまう。
「働く」ことには大きく二つの意味がある。「働く」ことによって、経済的側面とでもいおうか、会社から給与を得て生活する側面と、「働く」ことを通じて仕事に「やり甲斐」を培い、職場の人間関係を通じて自分自身の成長を図るなどの、「生き甲斐」をもつことである。前者に対して精神的側面といえるものである。
精神的側面が重要なのは、その「甲斐」によって、職場や家庭で「自分の存在」を意識し、「自分の役割」を認識できるからである。繰り返すが、「自分の存在に価値」を見出し、「自分の役割」を意識できれば、命の尊さや意味を自覚し人生を全うする道こそが、親から命を受け、そして引き継いでいく人間のあり方を決められるのである。
その労働者が組織している労働組合が、「働いている」組合員の、経済的側面のみに目を奪われ、精神的側面をないがしろにした運動を続けていくとすれば、極論すれば組合員の人生をないがしろにしていると非難されてもおかしくないのである。
この混迷しているともいわれる社会の中で、労働組合こそが組合員の人生を有意義なものにできる位置にいることを忘れてはならない。
浅学の身であれこれ言う資格はないと思いつつも、本稿の12号でもふれた「複合社会」の難しさを痛感させられる出来事である。およそ人の心の中を、他人が知る由もない。しかし人間社会というものは、さまざまな出来事の意味を考え、その中から社会の慣習や制度、あるいは考え方などを修正しながらつづいていく。自殺者が多い日本社会を、正常な社会に戻そうとする思いからであれば、他人には分からない人の心であっても、あえて故人の尊厳を傷つけないように詮索するのも有益かもしれない。
識者の意見も千差万別である。自殺の理由も遺書が残されていればはっきりするものの、多くは推測の域を出ない意見になっているようだ。前述した経済上の理由もあれば、家庭や学校、家族関係、恋愛、会社の人間関係というように、一つの理由に原因を帰すること自体にも無理があるような気がする。本人自身の人生観や性格も影響することもあるし、推測である限り自殺の原因になる要素は無限かもしれない。さまざまな要因が複雑に関係しながら、本人の意思や行動につながっていく。まさに複合した結果なのだろう。
こうして巷間交わされるさまざまな意見を聞く中で、自分が同調できる意見は、いつも心の中に抱いている自分の価値観のようなものから見出しているのだ。
それが価値観といわれるほどのものかは別にして、人は自分の存在や役割に価値を見出しているときは、自ら命を失う道は選ばない。それだけ人生において「生き甲斐」や「やり甲斐」を感じることは重要なことなのだ。
この社会に労働者が生まれてから多く語られてきたことは、「労働」そのものをめぐる論争である。「労働」を好まざるものとして位置づける考え方と、むしろ人生そのものとして位置づける考え方の間で交わされている。会社に勤め、毎日働いている中で、「働くこと」を「好ましからざる」ものとして受け止めれば、私たちはいつも被害者であり、人生そのものを否定することにも通じてしまう。
「働く」ことには大きく二つの意味がある。「働く」ことによって、経済的側面とでもいおうか、会社から給与を得て生活する側面と、「働く」ことを通じて仕事に「やり甲斐」を培い、職場の人間関係を通じて自分自身の成長を図るなどの、「生き甲斐」をもつことである。前者に対して精神的側面といえるものである。
精神的側面が重要なのは、その「甲斐」によって、職場や家庭で「自分の存在」を意識し、「自分の役割」を認識できるからである。繰り返すが、「自分の存在に価値」を見出し、「自分の役割」を意識できれば、命の尊さや意味を自覚し人生を全うする道こそが、親から命を受け、そして引き継いでいく人間のあり方を決められるのである。
その労働者が組織している労働組合が、「働いている」組合員の、経済的側面のみに目を奪われ、精神的側面をないがしろにした運動を続けていくとすれば、極論すれば組合員の人生をないがしろにしていると非難されてもおかしくないのである。
この混迷しているともいわれる社会の中で、労働組合こそが組合員の人生を有意義なものにできる位置にいることを忘れてはならない。



