善人が声を潜め、悪人が世を跋扈(ばっこ)する様を称したり、今の世で言えばテレビ、新聞などのマスメディアを通じて流され作られる軽佻浮薄ともいうべき文化などを非難するのに、「悪貨が良貨を駆逐する」といわれることが多い。
もともと、この「悪貨が良貨を駆逐する」という言葉は、16世紀のイギリスの国王財政顧問のグレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣の改悪のためである」と進言した故事に由来したものといわれる(この話から19世紀の経済学者が「グレシャムの法則」と命名した)。昔の国際貿易の決済は「金本位制」で、実際に「金」を含んでいる「金貨」が流通していた。ところが日本でも江戸時代に行ったが、権力者というものは、財政が行き詰ると流通しているよりも「金」の含有量が低い新しい貨幣を発行し財政危機を切り抜けようとする。イギリスでも財政の再建を目的に「金」の含有量が低い新しい貨幣(金貨)を発行した。表面の貨幣の名目(額面)は同じでも、「金」の含有量は違っている。実際の「金」の含有量が違えば、含有量の多いほうを大事にするのは当たり前でもある。経済学的にいえば、額面が同じという「通貨の価値」は同じであっても、「金」という「貴金属の価値」は違うのである。二種類の貨幣を持っている場合、実際に支払うときには、同じ額面さえ払えばいいのだから誰しもが「貴金属」の貨幣は使わないで、「金の含有量」の少ない貨幣を支払いに充てる。このように、貴金属の価値が高いほうを良貨、低いほうを悪貨と呼ぶので、市場には悪貨が流通し、良貨は隠されてしまう。こうした状況を「悪貨が良貨を駆逐する」と表現した。この結果、「金本位制」といいながらも、金の価値の低い悪貨が流通の中心となり、「金本位制」そのものが崩壊していく危険を内在させてしまう。
金本位制が崩壊したのは、国際貿易の決済通貨であったドルを自国通貨とするアメリカが、世界中にドルをばら撒きすぎたために(輸入過剰の貿易)手持ちの「金」が不足し、ドルを金に換えられない事態が迫ってきたため、一方的に「金とドル」の両替を禁止した方針を採ったことによる。
早晩、金本位制は崩壊するにしても、当時の世界貿易は自国内も「金本位制」が絶対であり、国の力は「金の保有高」によっていた。
やがてこの「金本位制」が崩壊すると、今度は国の経済力は金ではない「貨幣価値」に左右されるようになる。つまり物価との関係でいえば、貨幣はインフレになると価値を下げてしまうし、貿易決済の交換レートも変動する。ドルの価値が下がったことによる「円高」が日本経済を直撃しているのは言わずもがなである。
話を元に戻そう。資料によれば、冒頭で記した例のように、「悪貨が・・・」の話はその後本来の通貨の問題に限定せずに、社会におけるさまざまな現象に用いるのが一般的になったが、その用法は「転義的用法」といい、昔から使われてきたようだ。古代ギリシャの劇でも「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨が出回るように、良い人よりも悪い人が選ばれる」とう台詞があるそうである。
さて自分の身の回りを眺めてみると、社会現象でも、あるいは政治の場でも、労働組合運動の場でも、「悪貨が良貨を駆逐」していると思われる現象が散見される。世にあるべき正論が、人間の業や劣情に訴える声にかき消されてしまう現象だ。中でもマスメディアの影響力は甚大である。その理由の第一は、私たち一般の国民の大半は、国内に限らず世界中のあらゆる出来事をマスメディアを通じてしか知ることが出来ないからである。第二に、マスメディア各社は、社の方針として「公平・公正」の看板を掲げ、私たちの多くもそれを信じている。新聞やテレビは事実を、公平・公正に報道してくれていると思っている。第三に、だから私たちは報道の中身を公正な立場からの真実として受け止める。とくに日本では、売り上げや視聴率を満遍なく獲得するために、ある特定の価値観や思想を持った読者にだけ受け入れられるような編集方針はとらないためだ。たとえばアメリカでは、大統領選挙にあたってニューヨークタイムスもワシントンポストもどちらの候補がふさわしいかを明らかにする。読者もそれを承知で記事を読むのだ。北朝鮮や中国を始め、いまだ国内の言論の自由と並んで報道の自由が存在しない国は多い。どちらにしろ、読者はそれらの前提で記事を読むことになる。
こうして日本では新聞が偏っていない前提で読んでいるのだが、もしそうでなかったらとしたら私たちは騙されていることになる。少し前になるが私は「真実を観る眼」を養おうと訴えたことがある。いくつかの新聞記事を例示し、記事そのものが新聞社や記者の意図に基づいて掲載されていることを指摘した上で、記事を鵜呑みにしないで私たち自身が、記事の背景にある特定の意図を見抜ける知識を養おうと訴えたのである。
記事には「誤報」というのが時々あるが、これなどは記者の勇み足や確認の杜撰さなど、悪意があったわけではないのだろう。造語になるが、ある特定の意図で書かれる記事に「曲報」がある。ある事実を捩じ曲げて報じる意であるが、これが厄介なのは、ある事実は事実として報じるが、事実がおきた理由や背景を捩じ曲げたり自分流の解釈で報じるので、読者は報じられた事実・起きた理由・背景も含めて「それが真実なのだろう」と信じてしまう。あるいはまた、事実が無いのにあったかのごとく報じる「虚報」がある。これなどは極めて悪質でめったに無いと思われるが、時折テレビで問題になる「やらせ」などはこの部類に属する。
また人は、センセーショナルな見出しや記事に興味を持つが、しかしこれは、読む側も承知で「あまり信じない」で、いわば暇つぶしの感覚をもって接する。一般的にはこうした傾向を持つ新聞を大衆紙として扱うので、たとえば「東京スポーツ」などの毒々しい見出しを頭から信じる人はわずかだ。ところが、この大衆紙的記事が読者の興味を引くことから、最近はどうも一般紙にもその傾向が見られ始める。見出しや記事の言葉に品格が無くなっているのである。「冷やかし」や「ためにする」記事が多いのである。とくに民主党・鳩山内閣に対するニュースに顕著に見られる。マスメディアには社会の「木鐸(ぼくたく=世人を教え導く人)」としての任があるから批判も大いに結構なのだが、出来ればそれは品格のある言葉と意思で行ってもらいたいのだが。
総理の記者会見を批判するのに、「♪意見聞くときゃ頭が下がる 意見頭の上通る」と、都都逸まで引用するに至ってはさすがに首を傾げたくなる(09年12月25日「読売新聞・夕刊」)。でも原稿を書くのにはその人の品性が現れるといわれるから、これも見当はずれの意見かもしれない。
しかし総じていえば、新聞社によって鳩山政権に対する姿勢はかなり違っている。それは記事やコメンテーターによってもたらされている。40年以上の購読者を自認してきた者として、先にあげた新聞には些か失望しつつある。マスメディアが時の権力を批判することは民主主義にとっては好ましいことだとも思うが、よって立つ基盤を「反民主」においているならば、「公平・公正」の看板を外し、その立場を明確にした上で掲載しなければアンフェアではないかと思うのだが・・・。
それも詮無い意見かもしれない。今回の政権交代も、マスメディアの自民党批判によって実現したともいえるからである。マスメディアが味方の時は容認し、反対したからといって批判するのもおかしいとも言える。むしろそんな批判よりも、どんな記事が出ようとも自分に「真実を観る眼」があればいいのだから。ただ一つ、品格や品性の無いマスメディアが世情に蔓延することによって、「良貨が悪化に駆逐される」社会になるのを憂えるのである。
もともと、この「悪貨が良貨を駆逐する」という言葉は、16世紀のイギリスの国王財政顧問のグレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣の改悪のためである」と進言した故事に由来したものといわれる(この話から19世紀の経済学者が「グレシャムの法則」と命名した)。昔の国際貿易の決済は「金本位制」で、実際に「金」を含んでいる「金貨」が流通していた。ところが日本でも江戸時代に行ったが、権力者というものは、財政が行き詰ると流通しているよりも「金」の含有量が低い新しい貨幣を発行し財政危機を切り抜けようとする。イギリスでも財政の再建を目的に「金」の含有量が低い新しい貨幣(金貨)を発行した。表面の貨幣の名目(額面)は同じでも、「金」の含有量は違っている。実際の「金」の含有量が違えば、含有量の多いほうを大事にするのは当たり前でもある。経済学的にいえば、額面が同じという「通貨の価値」は同じであっても、「金」という「貴金属の価値」は違うのである。二種類の貨幣を持っている場合、実際に支払うときには、同じ額面さえ払えばいいのだから誰しもが「貴金属」の貨幣は使わないで、「金の含有量」の少ない貨幣を支払いに充てる。このように、貴金属の価値が高いほうを良貨、低いほうを悪貨と呼ぶので、市場には悪貨が流通し、良貨は隠されてしまう。こうした状況を「悪貨が良貨を駆逐する」と表現した。この結果、「金本位制」といいながらも、金の価値の低い悪貨が流通の中心となり、「金本位制」そのものが崩壊していく危険を内在させてしまう。
金本位制が崩壊したのは、国際貿易の決済通貨であったドルを自国通貨とするアメリカが、世界中にドルをばら撒きすぎたために(輸入過剰の貿易)手持ちの「金」が不足し、ドルを金に換えられない事態が迫ってきたため、一方的に「金とドル」の両替を禁止した方針を採ったことによる。
早晩、金本位制は崩壊するにしても、当時の世界貿易は自国内も「金本位制」が絶対であり、国の力は「金の保有高」によっていた。
やがてこの「金本位制」が崩壊すると、今度は国の経済力は金ではない「貨幣価値」に左右されるようになる。つまり物価との関係でいえば、貨幣はインフレになると価値を下げてしまうし、貿易決済の交換レートも変動する。ドルの価値が下がったことによる「円高」が日本経済を直撃しているのは言わずもがなである。
話を元に戻そう。資料によれば、冒頭で記した例のように、「悪貨が・・・」の話はその後本来の通貨の問題に限定せずに、社会におけるさまざまな現象に用いるのが一般的になったが、その用法は「転義的用法」といい、昔から使われてきたようだ。古代ギリシャの劇でも「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨が出回るように、良い人よりも悪い人が選ばれる」とう台詞があるそうである。
さて自分の身の回りを眺めてみると、社会現象でも、あるいは政治の場でも、労働組合運動の場でも、「悪貨が良貨を駆逐」していると思われる現象が散見される。世にあるべき正論が、人間の業や劣情に訴える声にかき消されてしまう現象だ。中でもマスメディアの影響力は甚大である。その理由の第一は、私たち一般の国民の大半は、国内に限らず世界中のあらゆる出来事をマスメディアを通じてしか知ることが出来ないからである。第二に、マスメディア各社は、社の方針として「公平・公正」の看板を掲げ、私たちの多くもそれを信じている。新聞やテレビは事実を、公平・公正に報道してくれていると思っている。第三に、だから私たちは報道の中身を公正な立場からの真実として受け止める。とくに日本では、売り上げや視聴率を満遍なく獲得するために、ある特定の価値観や思想を持った読者にだけ受け入れられるような編集方針はとらないためだ。たとえばアメリカでは、大統領選挙にあたってニューヨークタイムスもワシントンポストもどちらの候補がふさわしいかを明らかにする。読者もそれを承知で記事を読むのだ。北朝鮮や中国を始め、いまだ国内の言論の自由と並んで報道の自由が存在しない国は多い。どちらにしろ、読者はそれらの前提で記事を読むことになる。
こうして日本では新聞が偏っていない前提で読んでいるのだが、もしそうでなかったらとしたら私たちは騙されていることになる。少し前になるが私は「真実を観る眼」を養おうと訴えたことがある。いくつかの新聞記事を例示し、記事そのものが新聞社や記者の意図に基づいて掲載されていることを指摘した上で、記事を鵜呑みにしないで私たち自身が、記事の背景にある特定の意図を見抜ける知識を養おうと訴えたのである。
記事には「誤報」というのが時々あるが、これなどは記者の勇み足や確認の杜撰さなど、悪意があったわけではないのだろう。造語になるが、ある特定の意図で書かれる記事に「曲報」がある。ある事実を捩じ曲げて報じる意であるが、これが厄介なのは、ある事実は事実として報じるが、事実がおきた理由や背景を捩じ曲げたり自分流の解釈で報じるので、読者は報じられた事実・起きた理由・背景も含めて「それが真実なのだろう」と信じてしまう。あるいはまた、事実が無いのにあったかのごとく報じる「虚報」がある。これなどは極めて悪質でめったに無いと思われるが、時折テレビで問題になる「やらせ」などはこの部類に属する。
また人は、センセーショナルな見出しや記事に興味を持つが、しかしこれは、読む側も承知で「あまり信じない」で、いわば暇つぶしの感覚をもって接する。一般的にはこうした傾向を持つ新聞を大衆紙として扱うので、たとえば「東京スポーツ」などの毒々しい見出しを頭から信じる人はわずかだ。ところが、この大衆紙的記事が読者の興味を引くことから、最近はどうも一般紙にもその傾向が見られ始める。見出しや記事の言葉に品格が無くなっているのである。「冷やかし」や「ためにする」記事が多いのである。とくに民主党・鳩山内閣に対するニュースに顕著に見られる。マスメディアには社会の「木鐸(ぼくたく=世人を教え導く人)」としての任があるから批判も大いに結構なのだが、出来ればそれは品格のある言葉と意思で行ってもらいたいのだが。
総理の記者会見を批判するのに、「♪意見聞くときゃ頭が下がる 意見頭の上通る」と、都都逸まで引用するに至ってはさすがに首を傾げたくなる(09年12月25日「読売新聞・夕刊」)。でも原稿を書くのにはその人の品性が現れるといわれるから、これも見当はずれの意見かもしれない。
しかし総じていえば、新聞社によって鳩山政権に対する姿勢はかなり違っている。それは記事やコメンテーターによってもたらされている。40年以上の購読者を自認してきた者として、先にあげた新聞には些か失望しつつある。マスメディアが時の権力を批判することは民主主義にとっては好ましいことだとも思うが、よって立つ基盤を「反民主」においているならば、「公平・公正」の看板を外し、その立場を明確にした上で掲載しなければアンフェアではないかと思うのだが・・・。
それも詮無い意見かもしれない。今回の政権交代も、マスメディアの自民党批判によって実現したともいえるからである。マスメディアが味方の時は容認し、反対したからといって批判するのもおかしいとも言える。むしろそんな批判よりも、どんな記事が出ようとも自分に「真実を観る眼」があればいいのだから。ただ一つ、品格や品性の無いマスメディアが世情に蔓延することによって、「良貨が悪化に駆逐される」社会になるのを憂えるのである。



