世の中で一番憎むべきことは戦争といわれる。しかし、歴史を紐解けば分かるように、憎むべきといいながら人がこの世にある限り、国家がこの世にある限り避けがたいのも戦争のようである。人がこれほどまでに戦争を憎んでいるにもかかわらず、これほど多くの人が戦争の理不尽さの犠牲になっているにもかかわらずである。
かつて子ども心に、国家や集団の指導者が始める戦争は、戦争を決めた人々だけが世界のある場所に集まって殺し合いをすればいいのに、善良なる国民まで巻き込まなければいいのにと思ったことは再三でない。
はるか原始時代、狩猟民族は獲物の奪い合いから戦いを始めた。農耕民族はやはり作物や土地の奪い合いから戦いを始めた。人類は何らかの集団を形成して世界中を移動する。その間、集団を超えて人類の子孫を残す本能(性欲)によって混血を繰り返す。あるとき、集団の生活が安定する見通しを持って定住を決断する。定住によって縄張りが出来、縄張りを侵す集団とは戦って撃退する。一人では不安になる精神状態と、人智が及ばぬ自然現象への畏怖などを経て、集団には移動中から芽生えていた固有の宗教がうまれる。こうして国が生まれ、言語が生まれ、宗教が固定化する。国を侵す集団には制裁を加え、他の集団の宗教は排斥する。制裁と排斥を戦争を通じて実現させてきたのだ。原始人が移動をしながら混血を繰り返していたにもかかわらず、定住した瞬間から国家が生まれ、領土の奪い合い、宗教の対立など、さまざまな理由から戦争も定着してしまったのか。
宗教対立は不信心な自分には理解しがたい。自らが信じる宗教以外を邪宗と認識すれば、他宗派は世の中のためには害毒となる。いくら説得して邪宗を信じている他人は改めようとしない。邪宗は社会の害毒になり、悔い改めないのであれば宗教が宿る肉体を消すしかない。肉体が消えれば邪宗はなくなる。宗教戦争はこうして殺戮を繰り返し、ヨーロッパの宗教戦争のごとく「皆殺し」戦争になったという。日本も例外ではない。過の織田信長が比叡山を焼き討ちし信者の皆殺しを図ったのも、権力に隷属しない信心の強さを恐れたからに違いない。
手に入れた権力への欲望、手に入れた利益、利益を生み出す既存社会のシステム、そのすべてを守ろうとする人々と、改革しようとした人々の戦いも戦争であり、ヨーロッパでは市民革命とか、プロレタリア革命とかよばれ、日本では明治維新がそれにあたる。
こうしてみれば人間の欲望、憎しみ、野心、宗教などがある限り、戦争はなくならないのかと暗澹となってしまう。
アメリカは9・11の同時多発テロに遭遇したことを契機に、テロリズムとの戦いを新たな戦争と位置づけた。「新しい戦争とは」今までの国家間の戦争とは違うという意味であろう。このテロとは、フランス革命末期、ロベスピエール率いるジャコバン派独裁による恐怖政治(レジーム・ド・ラ・テルール)のテルール(恐怖)が語源という。
自由と人権を尊重する法治国家は民主主義国の最大の長所だが、それを利用して
攻撃してくるテロに対して、長所は最大の弱点になってしまう。「自由と人権を尊重し、
法律を守って」防御しようとしても防ぎようがないからである。
テロとは、国家間の戦争では勝てそうも無いから、敵と見なした国や団体の一般市民
を無差別にできるだけ多く虐殺して、世間を震え上がらせ、テロは防ぎようがないという
無力感を蔓延させ、自分たちの思い通りの世の中にしようと目論むのである。それに対抗しようとロシアをも含む先進国はこぞってテロとの戦いに邁進していく。「力には力で制圧する」という方針である。
一方、独裁者フセインが倒れたイラクでは、自爆テロの志願者が後を絶たないという。真実かどうかは分からないが、貧しいイスラム国家は同じような状況にあると言う人もいる。自爆テロ志願者には死亡後の家族の生活が保障されるという説もある。「イスラエルある限りテロは続ける」という彼らの宗教戦争の真意は私たちには測り知れない。ただ浅学の身を顧みず、もし許していただけるのであれば、あえて「テロの根源は貧しさにある」のではと思ってしまう。新聞で言うイラクも、アフガニスタンも、バングラデシュも、およそ自爆テロ志願者の供給源といわれる国々は、貧困にあえいでいる。貧しき人々は、もともと争いを好むわけではない。が、貧しさゆえに、現状に苦しみ、何とかしたいと悶々としているときに、何かの拍子に貧しさの原因が「宗教対立」や「一部富裕国の横暴」と囁かれることによって、公正と正義のために自らの命をささげる行為に走ることは有り勝ちではと思ってしまうのである。
多くの国が、そこそこの豊かさを享受することが出来れば、テロは撲滅とはいかないまでも、今とは違う世界が生まれるような気がする。でも現実はそうはいかないようだ。国民の貧しさに眼を瞑ってでも核兵器を持とうとする国もあるし、領土をめぐる意見対立も後を絶たない。
人間が人間である限り、戦争はなくならないのだろうか。
いや、人間が人間であるがゆえに、相互に理解するよう努力するし、何らかの平和的解決の道を見出すことが出来るに違いない。それが叶わぬ夢に近いことであっても、ひたすらそのための不断の努力を重ねるしか、自分を含めた人間の尊厳、自由と人権を維持する道は無いのである。
かつて子ども心に、国家や集団の指導者が始める戦争は、戦争を決めた人々だけが世界のある場所に集まって殺し合いをすればいいのに、善良なる国民まで巻き込まなければいいのにと思ったことは再三でない。
はるか原始時代、狩猟民族は獲物の奪い合いから戦いを始めた。農耕民族はやはり作物や土地の奪い合いから戦いを始めた。人類は何らかの集団を形成して世界中を移動する。その間、集団を超えて人類の子孫を残す本能(性欲)によって混血を繰り返す。あるとき、集団の生活が安定する見通しを持って定住を決断する。定住によって縄張りが出来、縄張りを侵す集団とは戦って撃退する。一人では不安になる精神状態と、人智が及ばぬ自然現象への畏怖などを経て、集団には移動中から芽生えていた固有の宗教がうまれる。こうして国が生まれ、言語が生まれ、宗教が固定化する。国を侵す集団には制裁を加え、他の集団の宗教は排斥する。制裁と排斥を戦争を通じて実現させてきたのだ。原始人が移動をしながら混血を繰り返していたにもかかわらず、定住した瞬間から国家が生まれ、領土の奪い合い、宗教の対立など、さまざまな理由から戦争も定着してしまったのか。
宗教対立は不信心な自分には理解しがたい。自らが信じる宗教以外を邪宗と認識すれば、他宗派は世の中のためには害毒となる。いくら説得して邪宗を信じている他人は改めようとしない。邪宗は社会の害毒になり、悔い改めないのであれば宗教が宿る肉体を消すしかない。肉体が消えれば邪宗はなくなる。宗教戦争はこうして殺戮を繰り返し、ヨーロッパの宗教戦争のごとく「皆殺し」戦争になったという。日本も例外ではない。過の織田信長が比叡山を焼き討ちし信者の皆殺しを図ったのも、権力に隷属しない信心の強さを恐れたからに違いない。
手に入れた権力への欲望、手に入れた利益、利益を生み出す既存社会のシステム、そのすべてを守ろうとする人々と、改革しようとした人々の戦いも戦争であり、ヨーロッパでは市民革命とか、プロレタリア革命とかよばれ、日本では明治維新がそれにあたる。
こうしてみれば人間の欲望、憎しみ、野心、宗教などがある限り、戦争はなくならないのかと暗澹となってしまう。
アメリカは9・11の同時多発テロに遭遇したことを契機に、テロリズムとの戦いを新たな戦争と位置づけた。「新しい戦争とは」今までの国家間の戦争とは違うという意味であろう。このテロとは、フランス革命末期、ロベスピエール率いるジャコバン派独裁による恐怖政治(レジーム・ド・ラ・テルール)のテルール(恐怖)が語源という。
自由と人権を尊重する法治国家は民主主義国の最大の長所だが、それを利用して
攻撃してくるテロに対して、長所は最大の弱点になってしまう。「自由と人権を尊重し、
法律を守って」防御しようとしても防ぎようがないからである。
テロとは、国家間の戦争では勝てそうも無いから、敵と見なした国や団体の一般市民
を無差別にできるだけ多く虐殺して、世間を震え上がらせ、テロは防ぎようがないという
無力感を蔓延させ、自分たちの思い通りの世の中にしようと目論むのである。それに対抗しようとロシアをも含む先進国はこぞってテロとの戦いに邁進していく。「力には力で制圧する」という方針である。
一方、独裁者フセインが倒れたイラクでは、自爆テロの志願者が後を絶たないという。真実かどうかは分からないが、貧しいイスラム国家は同じような状況にあると言う人もいる。自爆テロ志願者には死亡後の家族の生活が保障されるという説もある。「イスラエルある限りテロは続ける」という彼らの宗教戦争の真意は私たちには測り知れない。ただ浅学の身を顧みず、もし許していただけるのであれば、あえて「テロの根源は貧しさにある」のではと思ってしまう。新聞で言うイラクも、アフガニスタンも、バングラデシュも、およそ自爆テロ志願者の供給源といわれる国々は、貧困にあえいでいる。貧しき人々は、もともと争いを好むわけではない。が、貧しさゆえに、現状に苦しみ、何とかしたいと悶々としているときに、何かの拍子に貧しさの原因が「宗教対立」や「一部富裕国の横暴」と囁かれることによって、公正と正義のために自らの命をささげる行為に走ることは有り勝ちではと思ってしまうのである。
多くの国が、そこそこの豊かさを享受することが出来れば、テロは撲滅とはいかないまでも、今とは違う世界が生まれるような気がする。でも現実はそうはいかないようだ。国民の貧しさに眼を瞑ってでも核兵器を持とうとする国もあるし、領土をめぐる意見対立も後を絶たない。
人間が人間である限り、戦争はなくならないのだろうか。
いや、人間が人間であるがゆえに、相互に理解するよう努力するし、何らかの平和的解決の道を見出すことが出来るに違いない。それが叶わぬ夢に近いことであっても、ひたすらそのための不断の努力を重ねるしか、自分を含めた人間の尊厳、自由と人権を維持する道は無いのである。



