鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.29 メディアの頽廃と迷走~沖縄を真剣に考えれば迷走するはず~
鈴木 勝利 顧問
2010/05/15
  五月連休、何をするでもなく漫然と過ごしながら、そんな自分をいささか嫌悪しながら、連日報道されるメディアの姿勢に少しばかりの違和感を覚える。五月政局といわれる沖縄の普天間基地移転問題である。基地の移転先候補地として地元の反対運動が大きく伝えられた鹿児島県徳之島、例年ほとんど取り上げられなかったのに、今年はどこの放送局も徳之島の闘牛の様子をニュースとして放映している。こんな平和の島になぜ米軍基地を、そんな世論誘導の呼びかけに見えて仕方ない。

 私自身、米軍基地を徳之島に移転させるべきとは考えていない。というより、正直にいえば、どうするのがベストなのかが分からないのだ。

 そもそもアメリカ軍の基地が日本にあるのはいいのか、そんな根本的なことでさえ明確な考えを持っていたわけでもない。かつての東西冷戦といわれた時代、ソ連や中国などの共産主義国家が民主主義国家の敵として存在し、対抗して日本が防衛のためにアメリカ軍の傘の下にいることに疑いはなかった。今はイランや北朝鮮の核問題に変わっても、脅威があることには変わりはない。経済が飛躍的に成長している中国に対しても、あの強大な軍事力を見せつけられれば気になって仕方ない。思えば、この地球上では今までも数え切れないほど戦争を繰り返してきた。どの戦争をとっても、当事者や当事国では「正義・自衛」を理由にしている。「自国の方が悪い」などといって戦争をする国は存在しない。戦争は相手国に対する脅威、恐怖、不信などの連鎖から起るのは明らかだ。自国だけなら脅威や恐怖、不信は取り除けそうだが、相手国のことは分からないから、「そう思いたい」が「思えない」のだ。この心理がある限り、戦争はなくならない気がする。日米安全保障条約は本当に必要なのだろうか、それが分からないのだ。必要ないのが一番好ましいのだが、あの北朝鮮や中国やイランという国が分からないから、やっぱり不安になる(最もメディアを通じて不安になるような情報しか流されていないからかもしれないが)。アメリカ軍の日本駐留の是非を決める根源的な問いかけに答えられない自分がいる。

 安保条約によって米軍の日本駐留を認めたとして、つぎに自分の気持ちに割り切れなさが残るのが沖縄のことだ。基地が必要と考えれば、日本のどこかに造らなければならないのだが、「自然豊かな平和な〇○に基地は来るな」というスローガンは、日本中すべての地域で共通の思いなのだ。沖縄の人は「県外・外国」と、「沖縄以外」ならいいのだ(今まで犠牲を強いられてきたのだから、他の地域とは同列には論じられないが)。徳之島の人も「徳之島以外の土地」ならいいのだ。東京の人は「東京以外」ならいいのだ。今回の移設問題も、沖縄と徳之島の人以外は、「自分とは関係ない所の問題」だから外野席の評論家でいられる。そして政府を「迷走」と冷やかしていれば済んでしまう。翻って自分はどうなのか。「自分が住んでいる土地」にくるとなればやはり反対するはずだ。「この土地以外」ならどこでもいいという無責任な自分に気がつき、そして沖縄の人々の犠牲の上にのほほんとしている自分を変えようともしない。

 辺野古地区の人々が言う「沖縄に対する差別」という非難も、沖縄だけを犠牲にしてきた日本政府にぶつけるのは当然なのである。でもこれだけ反対の意思が強いのに、以前の移設容認の意思表示は何だったんだろうか、と、チョット訝ってしまう。賛成した地元の意思とは…地元の行政責任者が住民の意思とは無関係に賛成してきたからなのか、ともかく分からない。メディアや一部の識者によれば、民主党が「県外・外国」と期待をもたせたからというが本当だろうか。でもはっきりしていることは、沖縄に対する差別という非難が総理に対して浴びせられても、実は「自分の土地以外なら」と、沖縄に犠牲を強いている私たちに対して浴びせられていることだ。

 為政者であればまず、いままで犠牲を強いてきた沖縄に対して、「沖縄から基地を移設する」ことを第一義に考えて、沖縄以外の土地を探すのに最大限の努力をするのは当たり前だし、それが駄目なら次善、三善の策を考えるのが常識ではないのかとも思う。その努力もしないで、戦後60有余年、ただひたすら沖縄に犠牲を強いてきた政治が正しかったのだろうか、これもよく分からない。鳩山総理がゴールデンウイークに沖縄を訪問した翌日の新聞、新聞社や記者の主観が紙面を踊る。「場当たり手法 ついに限界」、「詰め寄られ『徳之島』…沖縄でも迷走」、「首相『県内』平謝り」、「具体案は語らず 沖縄県民冷ややか」、「いったい何をしに来たのか」、「遅すぎた方針転換と説得工作」、「参院選控え首相窮地に 沖縄訪問」、「民主不安『選挙戦えない』」、「社民、連立離脱論浮上も」、「首相『ご負担をお願い』」、「賛成派も反対派も『今さら…』」、「失望の沖縄」、「地元の心をもてあそんでる」etc…これだけ批判のオンパレードを繰り広げれば、内閣支持率も、民主党支持率も下がるのは当たり前だ。そして世論調査が出ればメディアの主張は正しかったとなる。何のことはない、民主党非難の記事のオンパレードによって支持率を下げさせる世論誘導を行い、だからメディアの主張は正しかったといっているのと同じだ。

 ここに面白い意識調査の結果がある。ある労働組合の調査によれば、2009年の衆議院選挙で投票した組合員に何を参考に投票したかを問うたところ、「メディア情報」が第一位を占めた。メディアの影響力がいかに大きいかである。影響が大きいがゆえに、第三の権力とまでいわれるのだ(民主党政権が誕生したのも、メディアの自民党・福田内閣、阿部内閣、麻生内閣に対する批判報道のおかげでともいえる)。だからこそ、メディアはより中立であり、より公正であることを要求される。メディアが批判を繰り返し、読者や視聴者がその影響を受けて同調し、メディアの思うままの政治や社会がつくられたら、なんという時代になったかと空恐ろしくなる。

 迷走している自分自身の心の内を知る限り、悪口雑言とまでは言わないにしても、これだけ批判を口にするメディアに、それではメディア関係の会社や記者は、「このまま沖縄に犠牲を強いる」ことが正しいと言い切れるのか、と、問いかけもしたくなる。沖縄問題は、真剣に考えれば考えるほど迷走するのは避けようがない気がする。沖縄のことを真剣に考えないことが正しいのか。メディアの主観が正しいのか。こうして心はまた迷路に入ってしまうのだが、どんなに難しい問題であっても、政治家は最後に決断をしなくてはならない。迷走といわれようと決断するまではいろいろの人の意見に耳を傾け、悩みに悩んだ末にリーダーとして決断すればいい。

 自分も迷路から抜け出すためにまったく別の変え方をしようとしても、「沖縄の負担を軽減するために米軍は海外へ行くべきだ」といって、日米安保条約そのものを否定すれば別だが、当事国の米国が反対している現実を無視する政策に与するわけにはいかない。ここでまた、冒頭に記した日本の防衛という根源的な問題に戻ってしまう。グルグル回りの出口が見つからないからだ。

 新しい政党といっても、憲法を改正して再軍備を目指そうとする人々に「立ち上がれ」と呼びかけられても応じられないし、「再軍備」論者、「核武装必要論」、「徴兵制度の導入」を信条とする知事が三つの都市に存在しメディアをにぎわしている中では、真実を見分ける力が自分にあるかどうか自信はない。

 では、どう考えればいいのか。一層、新聞やテレビの記者のように、自分のことは棚に上げて、他者を批判し、冷笑し、得意になっていればいいのかと思おうとしても、自分にはそんな才もないからできない。

 今日も心は迷路をさまよっている。