鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.30 オオカミ少年~「稲むらの火」の教訓~
鈴木 勝利 顧問
2010/06/15
  チリ大地震による津波の警報や避難のありかたをめぐっていろいろと議論がされた。気象庁による警報が、はじめは1メートル程度から2~3メートルと修正されたことに対しても、結果が1メートル程度であったことから、「狼少年の類」と批判の声も聞こえる。津波の性質から最初の波より2波、3波の方が大きくなる可能性があるので十分に注意するようにとの警告が出されても、避難地区では第1波が収まるとすぐに帰宅した人が多数に上ったことについても多くの評論がなされたようだ。加えて、警報が出ているのにも拘らずサーフィンに興じた若者が千人を超えたという。こうした自然現象に対する方策についても、あるいは政治についても、はたまた社会現象についても、およそ人為的な出来事に対して、さまざまな世論が存在する。それが民主主義の特徴とするならば好ましい現象ともいえるのかもしれないが、人はなぜこうも好き勝手なことを言ったりやったりするのだろうかと思う。

 地震に津波はつきものだが、津波が話題になると必ず思い出すことがある。幼い頃の強烈な印象として記憶しているからなのだが、その話題とは、津波が起こると必ずふれられることで、大津波による生存者の言葉からも、津波による生死を分けるのに津波の言い伝えが明暗のカギになっているが、その言い伝えの話だ。

 この伝承は、昭和12年から昭和22年までの国定教科書(国語)に載っている話だが、私自身は年代から言えばその時代より新しい世代なので、おそらく教科書からではなく祖父母か両親に教わったものなのだと思う。その概要をフリー百科事典「ウィキベディア」から引用してみよう。

 時は1854年(安政元年)12月23日、「安政の東海地震(M8.4)」が起きた。和歌山県広川町に浜口儀兵衛(通称、号は梧稜)という人がいた。この人物は進取に富む人だったようで、ちょうど幕末の激動期で日本の将来を見据え、「世界の現状は門戸開放主義である。もし人が遠方より訪れるなら、迎えて交わるのは普通の礼儀である。然るにその容貌を見ず、その来意をも確かめずに、ただこれを拒絶するのは、あたかも臆病な犬が見慣れぬ人の影を見て遠吠えするようなものである」と、鎖国攘夷論者を批判しているのをみても、また実現しなかったものの30歳のとき、海外への渡航を幕府に願い出ていることをみても、はやりの坂本龍馬ではないが、進取の気性に富んでいたことが分かる。佐久間象山に学び、勝海舟、福沢諭吉などとも親交を結び、1866年(慶応2年)には人材養成(学資の融資も行いその中には勝海舟も含まれている)を目的に学校を設立したり、津波の被災後に備蓄米を出し、小屋を建てて住まいを提供したり、漁師には漁船や魚網などを与えたり、堤防工事に私財を出したりと、優れた人格と博愛主義の精神を垣間見ることが出来る。

 広川町は浜が湾曲しているために昔から津波の被害が受けやすい土地であった。地震は翌日12月24日の夕刻、前日を上回る規模で起こり静まると、次には天を圧するがごとくこの地を大津波が襲う。彼の手記によれば、地震の後には津波が来ることを知っていたので、23日には村民に警戒を呼びかけた上で家財の大半を高所に運ばせていた。その日の津波は埠頭を乗り越え小船を転覆させたものの、夜になると収まり通常の波になった。ところが、翌24日午後五時頃、前日とは比較にならない強烈な地震が発生、「瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟(じんえん=塵はホコリ、烟は煙)空を覆う」(同手記)が静まったので、家族に避難を促し自ら村内を巡視、沖に眼をやれば、天は暗黒の色を帯び、あたかも長い堤防のようになって怒涛が押し寄せてくる。自らも「瞬時にして潮流半身を没し、かつ沈みかつ浮かび、辛うじて一丘陵に漂着し、背後を眺むれば潮勢に押し流されるものあり、あるいは流材に身を憑(つ)かせ命を全うする者あり、悲惨の状見るに忍びず」。その後、「松明を持って路傍の稲叢(いなむら=刈り取った稲の束)に火を放なたしむるもの十余(松明をもたせた人数)以って漂流者にその身を寄せ安全を得るの地を表示する」(中略)「之により万死に一生を得たる者少なからず」「一本松に引き取りしころ轟然として激浪来たり」と記している。浜口儀兵衛34歳のときの出来事である。儀兵衛の号は「梧陵」といい、彼は津波の後も、備蓄米を供出、小屋を建てて住まいを提供、農具を始め漁師には漁船、魚網などを与えた。さらに津波を受けた経験から私財をなげうって堤防を築き、極貧の者には借家を無料で貸与、農商業者には低利で資本の貸し出しを行なったとある。出費総額は、4,665両に及び、村民の崇拝の対象となり、本人は辞退したが「浜口大明神」として神社の建立の話も出たという。

 この実話を小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「A Living God(生ける神)」のタイトルで本を出版、世界中に知らしめた。それから40年後、同郷の小学校教員中井常蔵が書き改め、文部省の教材公募に見事入選して1937年(昭和12年)から「稲むらの火」として伝承されることになる。

 小泉八雲の「生ける神」は、儀兵衛を五兵衛、当時34歳であった年齢も老人として扱われており、神として扱われたことになっているなど、事実と反する箇所がいくつかあるといわれているが、津波の恐ろしさと避難の重要さを表す物語として今も時折話題になる。地震の後には津波という恐ろしい自然現象が起こる、と私自身の心に刻み込まれた話なのだ。

 歴史的に見て日本で最大の津波の波高は1896年(明治29年)6月15日の「明治三陸地震」で、岩手県大船渡市綾里では湾内で増幅された波高が38.2メートルにも達するという途轍もない記録がある。また、この時の地震と津波による死者、行方不明者は、実に21,259名に及んでいる(防災危機管理アドバイザーの山村武彦氏によれば、このときの津波は「震度3」の小さな揺れの30分後に起きたという。但し、明治三陸地震のマグニチュードは「8.5」であったから小さな余震の後ということか)。

 改めて津波の恐ろしさを再認識する話だが、それだけに、今回の予報をめぐるさまざまな意見を残念に思わざるを得ない。もちろん正確な情報は欠かせないのだが、科学に限界がある以上、予知の難しさもわかっているのだから、自然を軽視せずに用心のし過ぎがあっても、それも当然、と自身が納得するくらいの心の持ちかたがあってもいいのではと考えてしまう。用心をしながらも「狼」が来なければ、それが最も好ましいことなのだ。災害に「もし」はないのだから…。