アメリカに嫁いだ娘が、「来てよし・帰ってよし」の「ハーフの孫」を伴って里帰りしてきたのが7月1日、すっかり嫁ぎ先のアメリカに溶け込んだのか、日本に帰国してすぐの7月4日には、日本人の両親の無関心を尻目に親子でアメリカの独立記念日を祝う。日本の「建国記念の日」を重く考えていない親からみると、何か妙な感じがしないでもない。ちなみに独立記念日の発端とも言われる「ボストンティパーテー事件」を知っているか問うたところ、「アメリカ人としては常識」との答えが返ってきた。
独立戦争を経てイギリスから独立したアメリカの建国は遡ること230年余、ボストンティパーテー事件と呼ばれる出来事に発端があったという。直近では2010年にオバマ政権が国民皆保険制度を提案したが、共和党(保守派)は全米各地でティーパーテーを組織して反対運動を盛り上げたというから、アメリカにとってこの事件は今なお有力な国民運動の地位を占めているということのようだ。
さらに、一説によると、「アメリカ国民の納税意識や課税に敏感な意識を物語る」ものとされ、以降、「納税者の反乱運動の象徴」としてアメリカ国民の意識に強い影響を与えているともいわれる。
アメリカにとっては、「大きい政府」「小さい政府」のスローガンに代表されるように、「課税」は即イデオロギー問題になり、時の政権の命運を左右する重要な要素の一つだ。
1773年植民地宗主国イギリスは、新たに茶法を制定した。これは、大量の茶の在庫を抱えて財政的に行き詰まったイギリスが、植民地での茶の販売独占権を東インド会社に与えるものであった。植民地側が茶への課税から逃れようとしてオランダ商人から茶を密輸入していたのを禁じる一方、東インド会社は当時の市価の半額の安値で茶を売り出そうとした。
これに対しアメリカでは、[1]イギリスが植民地の貿易全体の独占を狙う第一歩ではないか [2]茶税を課税した後でも密輸品よりも安価な東インド会社の茶が販売された場合、宗主国の課税権を容認することになるのではないか、との懸念が生まれ、反対運動が展開された。ボストンの急進派「自由の息子達」は、東インド会社の茶の販売人を襲撃するなど、過激な運動を展開した。
1773年12月、茶を積んだ東インド会社の貿易船がアメリカの四つの港に到着するが、陸揚げを拒否されたり、倉庫に封印されるなどして実際には販売されなかった。これら港のうちボストンでは、東インド会社の貿易船に荷揚げさせずにイギリスに退去するよう求めた。現地のイギリス総督はこれを拒否し、貿易船は荷揚げの機会を待つためボストン港に停泊し続ける。
こうした事態の中、1773年12月16日の夜に事件は起こった。毛布や顔ペイント等でモホーク・インディアン風の簡易な扮装をした3グループ、50人ほどの住人がボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲撃し、「ボストン港をティー・ポットにする」と叫びながら、342箱の茶箱を海に投げ捨てたのである。騒ぎを聞いて駆けつけた多くのボストン市民は、加勢も制止もせずこの様子を見つめていた。
これが「ボストン茶会事件」と呼ばれる事件で、行動を起こしたのはボストンの急進派市民(自由の息子達)であり、組織化の中心となったのはサミュエル・アダムスである。この時投棄された茶の損害額は1,000,000ドルに上るといわれ、この事件には植民地人の間においても賛否がわかれ、東インド会社の賠償請求に対してベンジャミン・フランクリンは私財をもって「茶の代金(茶税分を除く)」の賠償を試みようとしている(結局、賠償はされなかったが)。
これに対してイギリス政府は、翌年、ボストン港を閉鎖、マサチューセッツの自治権を剥奪、兵士宿営のための民家の徴発など、強硬な「抑圧的諸法」を出してボストンを軍政下に置いてしまう。植民地側は同年9月、フィラデルフィアに12の植民地代表(13のうち、ジョージア植民地を除く)を集めて第1回大陸会議を開き、本国議会(イギリス議会)の植民地に対する立法権を否認することと、イギリスとの経済的断交を決議した。
このような緊迫した情勢の中で、翌年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス軍と植民地民兵が衝突し、ついに独立戦争が勃発したのである。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
また、茶法に反対する一連の運動によって、植民地人の間にはそれまで愛飲していた紅茶をボイコットする者が多くなり、代わりにコーヒーが普及した。現在でもイギリス人には紅茶党が多く、アメリカ人にはコーヒー党が多いことを不思議に思ってきたが、この不買運動に由来していると、この年になって始めて合点がいった。
植民地人はイギリスからの移民が大多数を占め、元来親英的であった。アメリカ独立戦争が勃発した時点でも、独立を支持する愛国派は自営農民・中小工業者らを中心として植民地人口の3分の1ほどであり、忠誠派が3分の1、残りは中立派であった。
アメリカの独立宣言は、1776年7月4日、当時アメリカ国内にあった13の植民地が一同に集まって「大陸会議」を開き独立宣言を採択・署名したもので、イギリスとの独立戦争が最終的に終結するのは7年後の1783年のパリ条約による。
余談だが、独立宣言では、「全ての人間は平等に造られている」と述べているのだが、この「すべての人間」とは白人のことであり、有色人種と女性は含まれていない。これをみても人種差別は独立戦争時代から営々と培われ歴史に根付いていることが分かる。どこの国であっても、歴史とは面白いものである。
そんな影響からなのか、最近は女性の時代劇ファンが急増し、彼女たちの人気ナンバーワンが真田幸村というのも歴史の面白さの一つかもしれない。
独立戦争を経てイギリスから独立したアメリカの建国は遡ること230年余、ボストンティパーテー事件と呼ばれる出来事に発端があったという。直近では2010年にオバマ政権が国民皆保険制度を提案したが、共和党(保守派)は全米各地でティーパーテーを組織して反対運動を盛り上げたというから、アメリカにとってこの事件は今なお有力な国民運動の地位を占めているということのようだ。
さらに、一説によると、「アメリカ国民の納税意識や課税に敏感な意識を物語る」ものとされ、以降、「納税者の反乱運動の象徴」としてアメリカ国民の意識に強い影響を与えているともいわれる。
アメリカにとっては、「大きい政府」「小さい政府」のスローガンに代表されるように、「課税」は即イデオロギー問題になり、時の政権の命運を左右する重要な要素の一つだ。
1773年植民地宗主国イギリスは、新たに茶法を制定した。これは、大量の茶の在庫を抱えて財政的に行き詰まったイギリスが、植民地での茶の販売独占権を東インド会社に与えるものであった。植民地側が茶への課税から逃れようとしてオランダ商人から茶を密輸入していたのを禁じる一方、東インド会社は当時の市価の半額の安値で茶を売り出そうとした。
これに対しアメリカでは、[1]イギリスが植民地の貿易全体の独占を狙う第一歩ではないか [2]茶税を課税した後でも密輸品よりも安価な東インド会社の茶が販売された場合、宗主国の課税権を容認することになるのではないか、との懸念が生まれ、反対運動が展開された。ボストンの急進派「自由の息子達」は、東インド会社の茶の販売人を襲撃するなど、過激な運動を展開した。
1773年12月、茶を積んだ東インド会社の貿易船がアメリカの四つの港に到着するが、陸揚げを拒否されたり、倉庫に封印されるなどして実際には販売されなかった。これら港のうちボストンでは、東インド会社の貿易船に荷揚げさせずにイギリスに退去するよう求めた。現地のイギリス総督はこれを拒否し、貿易船は荷揚げの機会を待つためボストン港に停泊し続ける。
こうした事態の中、1773年12月16日の夜に事件は起こった。毛布や顔ペイント等でモホーク・インディアン風の簡易な扮装をした3グループ、50人ほどの住人がボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲撃し、「ボストン港をティー・ポットにする」と叫びながら、342箱の茶箱を海に投げ捨てたのである。騒ぎを聞いて駆けつけた多くのボストン市民は、加勢も制止もせずこの様子を見つめていた。
これが「ボストン茶会事件」と呼ばれる事件で、行動を起こしたのはボストンの急進派市民(自由の息子達)であり、組織化の中心となったのはサミュエル・アダムスである。この時投棄された茶の損害額は1,000,000ドルに上るといわれ、この事件には植民地人の間においても賛否がわかれ、東インド会社の賠償請求に対してベンジャミン・フランクリンは私財をもって「茶の代金(茶税分を除く)」の賠償を試みようとしている(結局、賠償はされなかったが)。
これに対してイギリス政府は、翌年、ボストン港を閉鎖、マサチューセッツの自治権を剥奪、兵士宿営のための民家の徴発など、強硬な「抑圧的諸法」を出してボストンを軍政下に置いてしまう。植民地側は同年9月、フィラデルフィアに12の植民地代表(13のうち、ジョージア植民地を除く)を集めて第1回大陸会議を開き、本国議会(イギリス議会)の植民地に対する立法権を否認することと、イギリスとの経済的断交を決議した。
このような緊迫した情勢の中で、翌年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス軍と植民地民兵が衝突し、ついに独立戦争が勃発したのである。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
また、茶法に反対する一連の運動によって、植民地人の間にはそれまで愛飲していた紅茶をボイコットする者が多くなり、代わりにコーヒーが普及した。現在でもイギリス人には紅茶党が多く、アメリカ人にはコーヒー党が多いことを不思議に思ってきたが、この不買運動に由来していると、この年になって始めて合点がいった。
植民地人はイギリスからの移民が大多数を占め、元来親英的であった。アメリカ独立戦争が勃発した時点でも、独立を支持する愛国派は自営農民・中小工業者らを中心として植民地人口の3分の1ほどであり、忠誠派が3分の1、残りは中立派であった。
アメリカの独立宣言は、1776年7月4日、当時アメリカ国内にあった13の植民地が一同に集まって「大陸会議」を開き独立宣言を採択・署名したもので、イギリスとの独立戦争が最終的に終結するのは7年後の1783年のパリ条約による。
余談だが、独立宣言では、「全ての人間は平等に造られている」と述べているのだが、この「すべての人間」とは白人のことであり、有色人種と女性は含まれていない。これをみても人種差別は独立戦争時代から営々と培われ歴史に根付いていることが分かる。どこの国であっても、歴史とは面白いものである。
そんな影響からなのか、最近は女性の時代劇ファンが急増し、彼女たちの人気ナンバーワンが真田幸村というのも歴史の面白さの一つかもしれない。



