鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.33 サッカーワールドカップの功罪~「栄光と挫折」は紙一重~
鈴木 勝利 顧問
2010/09/15
  今年(2010年)の6月から7月にかけて日本中を沸き立たせたサッカー・ワールカップはさまざまな話題を提供してくれた。大会前の準備試合では連戦連敗を記録、予想どおり岡田監督へは非難の大合唱が巻き起こった。メディアの影響からか、街中での市民の声もほぼ同じで、「これでもか」とばかり、およそ人間はここまで他人の悪口を言えるものかと思えるほどで、テレビに映る同監督の記者会見の映像は、見ていて気の毒になるくらいであった。

 しかし、スポーツはやはり「勝ってなんぼ」の世界なのかと、つくづく思う。決勝リーグへの進出が決まると「岡田監督絶賛の嵐」だ。「手のひらを返す」「豹変」とはまさにこのことかと思ったものだ。
 少々皮肉を並べれば、スポーツとは、前評判が低いほうが良いようだ。低ければ、負けても「やはり」で済む。オリンピックの男子柔道のように、なまじ強いという前評判によって「勝って当たり前」の風潮が出来てしまうと、負けたら、それこそぼろくそにこき下ろされる。悔し涙を流す選手を見ても、「涙を流すくらいなら」と、追い討ちをかけても平然としているメディアと私たち。もちろん、国際試合には税金が注ぎ込まれている以上、負けたくせに「楽しくやってきました」と笑顔で話す選手に苛立ちを覚えることもあるが、勝負の綾に一喜一憂するのを否定はしないが、もうすこし冷静な自分を求めたくもなる。

 ひょっとすると、岡田監督は、敗退すればどうせぼろくそに言われるのだから、前評判を悪くしておいて、負ければ「やはり」で済むし、勝てば今回のように賞賛の嵐を受けられるから、事前の試合を敢えて負けたのかもしれない、と、すべてを計算づくで臨んだとしたら、メディアを手玉に取ったのだからこんな愉快なことはないが、これは素人の勘ぐりの類いだろう。

 勘ぐりや冗談めいた話はこの辺にして、今も気になるのが、決勝リーグの敗戦を決したペナルティキックだ。自分のミスで敗戦を決めてしまった選手の気持ちは推し量るしかないが、心に負った傷は終生消えることはないだろう。
 「気にするな」「一生懸命やったのだから」「ペナルティキックは運・不運」などと慰められれば慰められるほど、「やり場のない」悔しさ、他人の慰めの言葉がむしろ自分への一層の苛立たしさを掻き立てるだけということもある。悩みに悩んでいる時の他人の言葉の重み。時には慰めの言葉より、自分が悩んでいることをそのまま承知してくれた方が良いと思うときもある。
 自らのキックのミスが、主要な敗戦を招いた事実、それは厳然と残ってしまう。その事実は単なる慰めの言葉では消しようもない。だとしたら、事実として批判を甘んじて受けた上で、失敗の原因を探り、再びの失敗を繰り返さない決意、そこから次への展望が開けるのだろう。なぜなら、勝利を決したといわれる他の選手の栄光をみれば、その裏返しだということが分かるからである。
 勝負とは、もしかしたら今回とまったく逆のことも起こり得るのだ。彼が栄光の絶賛を博し、他の選手が敗戦に打ちのめされることだって考えられる。スポーツの世界は、栄光と挫折(非難)は紙一重で決するものだ。

 そんなことよりチョッと気になって仕方ないことがある。メディアや地元でもてはやされている栄光の選手たちの一言、将来を託す子供たちへのメッセージ、「夢を忘れるな、希望を捨て去るな」の一言。サッカーに限らずスポーツ選手に、歌手に、タレントに、芸術家に、将来に夢を託している子供たちは多い。
 しかし、この社会に、夢や希望がかなえられない人は大勢いる。むしろ日の目を見ない人の方が多いのが現実である。夢を実現した人の陰には、成功者の何倍、何十倍もの夢敗れた人々がいる。夢が実らない現実に直面したとき、「夢を忘れない」ことが、「希望を捨て去らない」ことが、本当に正しいことなのか疑問を感じてしまう。もちろん、成功するためには「夢や希望を忘れない」ことが必要だが、同時に現実は紙一重でそんなに甘くないことも知らせておかなければならない。
 なぜ、夢や希望がかなえられない現実に直面したときの対応を話さないのか。このままいけば、少数の成功者の言葉が多くの少年・少女たちに誤解を与えていることになる。

 起業家においても同じだ。成功者の成功談はあまり参考にはならない。成功するには本人の決意や努力だけがすべてではないからだ。人間関係も含めた多くの環境条件が味方になってくれなければ実現しない。逆説的に言えば、むしろ敗者の経験の方が参考になるに違いない。失敗の原因は何だったのか、失敗が何をもたらしたのか、そこにこそ社会の現実や人生の真実があり、それを自分の人生にどう生かせるかが重要なのではないだろうか。

 一時期、フリーターなる働き方がもてはやされたことを思い出す。あたかもニューワーカーの誕生とさえ言われていたのだ。バブル時代の悪弊に振り回されたのか、好きな仕事がなかったら、ひとつの会社に縛られることなく、アルバイトなどで日々の生活を凌ぎながら「いい仕事」の好機を待ち続ける。メディアが持て囃すこんな働き方を選択したために、景気の悪化に伴いアルバイト、派遣労働にどっぷり浸かってしまわざるを得ない。もし成功していたら、真面目に働いている人に対して「俺を見ろ」と優越感に浸るに違いない。
 一方で、就職は学校を卒業する時期の景気動向に左右される現実がある。真面目に一生懸命に努力をしたにも拘らず就職できなかった人もいる。

 このように過去も現在も、仕事の選り好みに明け暮れた人々もいれば、努力しても恵まれなかった人もいる。失業者の中身も千差万別なのだ。
 社会がまず手を差し伸べるべきは、すべての失業者なのか、それとも失業の中身を吟味しなければならないのか、もし失業の事情によって扱いに差をつければメディアの非難は容易に推測できる。国民生活の安定を図る義務を負う政治は、失業してしまった真実の原因を度外視してすべてを同列に扱わなければならないということになる。ここにも国民感情と政治の軋轢を生む要因が潜んでいる。何かについて批判を繰り返すマスメディアだけが正しいのだろうか。