鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.34 賛美歌 アメイジング グレイス 考 ~宗教と日本人~
鈴木 勝利 顧問
2010/10/15
  白血病で夭逝(ようせい)した歌手の本田美奈子さんが、闘病生活の折に歌って静かなブームを呼んだ「アメイジング グレイス」を思わぬところで耳にする。酷暑が続く八月の下旬、知人の奮闘で桟敷席を確保できたので参加した大曲の花火大会の席上でのことだ。

 さすがに日本一と豪語される大曲の花火大会は、いつごろからか、夏の風物詩の代表格となったのが頷けるように、日本一を目指す花火師が「音楽と光と音」の共演で観客を楽しませる。つぎからつぎへとメロディーと光が共演する創造花火は圧巻の一言に尽きるが、「次の曲は『アメイジング グレイス』」というアナウンサーの声に、華やかな花火の競演に賛美歌である「アメイジング グレイス」が合うのかといささかの疑問を持ったものの、観客は違和感もなく美しい花火に眼を奪われ、メロディーに感動を受けていたようだ。

 教会の教えによれば「Amazing Grace」は賛美歌の中でも多くの人に知られている歌で、作詞者は18世紀に奴隷商人をしていたイギリス人のジョン・ニュートンという。彼は奴隷を冷酷に扱う非情な荒くれ者だったようで、その荒くれ者が大きな嵐に遭遇し死に直面したとき、初めて「神様、助けてください」と叫び幸いにも命を取りとめる。その体験を契機に彼が7歳のときに死んだ母が残してくれた聖書を読み始める。そして23歳でクリスチャンになりこう考えたのである。「こんな愚かな、どうしようもない者でさえ神は救って下された」と。牧師となった彼はこれを神からの恵みと考え、この恵みを詩として賛美歌に書き、死ぬまでこの恵みを語り伝えたというのが、「アメイジング グレイス」なのである。
 確かに神を信じるか否かに係わらず、死期が迫る本田さんの哀愁を帯びた弱々しい声が、それでも必死に生きようとする思いがこめられた声を聞くとき、改めて歌詞のもつ神への感謝がなんとなく分かるような気がするのだが。

 日本人の多くは唯一絶対の神を信ずることなく、とくに宗教的行事には信心・不信心を問わずに見境無く参加することが多い。一般的なものを挙げただけでも、元日には「初日の出」を拝み、初詣も神社仏閣を問わないし、家に仏壇や神棚があったにしても必ずしもその宗教に帰依していない人も多い。2月のバレンタインデーも12月のクリスマスも、キリスト教の宗教的行事として意識している人はまれだ。余計なことだが、日本に昔から伝わる季節の変わり目に行事をしたり特別なものを食べたりする慣わし(五節句・1月7日の七草粥、3月3日の桃の節句、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕、9月9日の菊の節句)に宗教的意義があるのだろうか。

 新興宗教に対して古くからある宗教を既成宗教として区別しているが、既成でも新興でも宗教に対する疑問の第一は、当人の意思を反映しない入信である。カトリックの入信の儀礼である「洗礼」は幼児のうちに行われるし、入信に特別な儀式が存在しないイスラム教ではその家に生まれたことで自動的にイスラム教徒として決められる。邪推の類に入るかもしれないが、宗教組織の維持や拡大に最も安易で有効な手立てとして選択しているのかもしれない。
 とくに、こうした傾向は今まで既成宗教に限られていたが、近年になってからは、新興宗教である創価学会でさえ会員の子どもや孫に信仰を継承させることで組織を維持、発展させようとしている(「日本の10大新宗教」島田裕巳著)。
 「自立」や「自己の存在意義」という意識が確立されていない幼時の段階で、当人の意思とは無関係に入信させる制度が民主主義社会の中で許されるのも不思議な気がする。

 上記の「日本の10大新宗教」の中で島田氏は、日本人の「無宗教という宗教観」について、日本人がそう考えるのも、「イスラム教徒と同様に、生まれたときから日本の既成宗教の信者になってしまうからである。日本の場合には、既成宗教が、神道と仏教という二つの宗教が組み合わさった特殊な形態をとっているために、自分たちを神道の信者と決めることもできないし、仏教の信者と決めることもできない。そこから、特定の宗教に属していないという意識が生み出される」というが、確かに「神のような父に、仏のような母に抱かれ」というように、神と仏が併存しているが、だからと言って百パーセント同調できない。神道にしろ仏教にしろ、いずれにも自分自身に信じているという意識がないのであって、二つの宗教が組み合わさったという意識すらないのである。

 「アメージング グレイス」の話がいろいろな方面に飛んだが、民族の精神文化として、仏教が日本人の意識の中に大きな影響を持っていることは否定できない。
 「孫引きの話」で恐縮だが、西洋に「禅」を広めたとされる鈴木大拙翁の話には得心するものがある。キリスト教やイスラム教に代表される西洋の宗教にとって、神は唯一絶対の存在であり公権力を超越している。
 ある時大拙氏の講演が終わると一人の学生が質問に立った。「仏教では神様が存在するのでしょうか」との問いに、氏は静かにこう答えたという。「仏教では『一』を立てることはしない」。同氏の元秘書の岡村さんによれば、「『一』という数字が存在するとすれば、その後に、二、三、四……から無限へと続く。したがって、『一』を含む相対の次元は、『対立』を意味する。『一』を立てると対立は終わらない。こちらの神があればあちらの神と対立が起こる。『一』を立てることによって、その神の名の下に戦争が起こる」。

 そういえば、西洋では過去に皆殺しの代名詞が冠せられた宗教戦争があったし、現在でもテロが起こると、テロ集団による「聖戦」、「キリスト教との宗教戦争」という声を聞かされる。2010年の9月には、アメリカの牧師がイスラム教の経典・コーランを燃やそうと呼びかけ物議をかもした。イスラム教徒による同時多発テロへの報復ということだが、現代においても宗教戦争はあるのだ。報復が戦争を誘発する歴史の反省もなく、そして「報復」には「報復」を持って自己の宗教を絶対視する。

 「こんな愚かなどうしようもない自分を救ってくれた神」なのに、「右の頬を打たれたら左の頬を」と教えられている神なのに、「富者が貧者に富を与える喜捨で救われる」と教える神なのに、どうして宗教戦争は絶えないのか。

 あれやこれや考えてみると、「こんな愚かな、どうしようもない無宗教意識の日本人」であるゆえに、唯一神でないゆえに共感してしまう仏教こそが、対立を繰り返す近代社会にあってはかけがえのない宗教観なのかもしれないと、ふっと考えてしまうのである。