物事を見るとき、どんな物差しで分析するかによってまったく違う世界が見えてくる。ちょうど、歴史物語を書く小説家によって、同じ主人公が善人であったり悪人になったりするのと似ている。
歴史は書き手の価値観によって描かれる。価値観が違う人が書けば内容も違ってくる。有名な話としては、時代小説でよく取り上げられる仙台伊達藩の「伊達騒動」では、家老原田甲斐は悪人に描かれることが多い。しかし、山本周五郎の「樅の木は残った」では忠臣になっている。忠臣蔵の悪役吉良上野介も地元では有能な領主として評価が高い。身びいき、判官びいきの類とは別に、評価の基準が何かによって結論が違ってくるのは当然なのだ。
私自身の経験でいえば、1955年の「三池争議」(注・下記参考資料参照)を評価するにあたっては、日本のエネルギーが石炭から石油に変わるのは歴史の必然だから、炭鉱の閉山は避けて通れないと考えている。したがって、組合のリーダーも時代の変化を見通し、炭鉱の閉山後の組合員の就職や生活をどのように手助けできるかに精力を注ぐべきだし、あえて組合員に石炭産業の行く末を説得すべきと考える。
だから日本社会が左右のイデオロギー対立の激しい時代環境にあったとはいえ、組合運動としては評価するわけにはいかない。
しかし、これは今の時代から遡って振り返るから言えることで、当時、当事者として組合員に、いくら時代の進歩とはいえ「自分たちの仕事がなくなる」ことを正論として説得できたかを問われれば些か自信はない。
一方、炭鉱閉山を資本の横暴とか、革命の学校と考えれば、反対闘争こそが組合運動の本意になるので私のような考えは非難されて当然になる。
おりしも、世界最大の石油大手企業エッソ石油が日本の石油スタンドから撤退を始めた。石油公害に対するエコカー普及に伴う需要の減退によるものという。日本のエネルギーは薪から石炭へ、石炭から石油へ、そして石油の次は何になるのか、これも時代の要請なのだ。
本号では時代の進歩によって変わっていく物差しの基準を人間の欲望の変化においてもろもろ考えてみたい。時代の進歩とは発展といっても良いのだろうが、その典型的な現象は生活の向上といえる。
この宇宙に地球が生まれ人間が誕生した瞬間から、人間は地球の主人公として自然界にさまざまな手を加えてきた。その動機は「生きるため」であった。生きるために物を食べ、生きるために物を欲し、末永い子孫の繁栄を通じて社会の永続を求めてきた。原始時代の根幹をなす価値観である。食のために狩をし、農耕に労を費やした。
生きることが可能となった人間は、より美味しい食をより多く求め、より多くの物を求めるように欲望を高めていく。
こうした欲望の変化を見るには、はるか原始時代を振り返るまでもない。「生きるため」の苛酷な環境は、ついこの間の終戦直後に経験している。敗戦で疲弊した日本はアメリカ軍の援助の下、朝鮮戦争などの需要に支えられてその後の高度成長の礎を築いた。当時のフィルムをみると分かるように、国内は闇市でごった返し、列車は買出しと称して農村へ出向く人々であふれた。人々は今を生きるために必死であった。当時の労働組合運動のスローガンは「食える賃金」であり、一時金は「越年資金」と称した。組合もまた生きるための運動に取り組んでいたのである。
多くの人が貧しい時代は、皆が同じように生活水準を高めていくことが求められる。生きることに必死な時代は賃金や一時金に査定が入ることを良しとはしない。
やがて経済の成長に合わせて生活も改善されていく。組合のスローガンも「食える賃金」から、「ヨーロッパ並みの賃金」に変わっていく。より高い生活水準を求めていくのである。この時代に入ってもなお、「生きるため」の時代と同じ運動をしていては時代に取り残されてしまう。見事なまでに欲望の変化に沿った運動を進めてきたのである。
やがて日本は名目的には世界トップ水準に入る賃金を実現する。名目的にはというのは、国の賃金水準は為替レートによって左右される側面があるからであり、また、世界一という物価水準によって、必ずしも世界一豊かな生活を営んでいるわけではないからである。が、国際比較ではトップレベルに到達していることに変わりはない。白黒テレビが家庭に普及し始めた頃、画面に映されるホームドラマで、アメリカの家庭で使われている大型テレビ、クリーナー、洗濯機を羨望の眼差しで見て、「我が家にも欲しい」、「家にあれば幸せな自分」になれると、人々は必死に働き、曲がりなりにもいまや多くの家庭で当たり前の必需品になった。
物が満たされ、かつて、そうした生活が幸せの象徴と思っていたにも係わらず、「この生活が幸せとは何かが違う」と感じ始めている。
「物」に象徴された豊かさの基準が見直されようとしている。世界の国民で、自分が幸せと感じている人が一位の国はブータンである。決して物があふれ便利な生活を送っているわけではない。「幸せ」とは「物や便利さを基準」にしていないことは明らかなのである。人間は物への欲望がなくなるわけではない。快適な生活、便利な物を多く持ちたいとも思う反面、それだけが人間の幸せのすべてではないことも知っている。
時代の進歩や発展によって人間の欲望は変化していく。そこそこの生活ができれば、今度は家庭や会社で自分は必要とされているのか、周囲の人は自分をどう評価しているのか、自分は何のために生きているのか、社会から必要とされているのか、仕事にやり甲斐を感じているのか、というように、人は「物」中心の欲望から変わっていくのである。極めて精神的なものに価値を置くようになる。世の中の物差しが変わるのである。人間生活の価値の基準が変化していくのである。
「食える賃金」から「ヨーロッパ並みの賃金」に進化していったように、今、組合運動の価値基準も新たな物差しに変わらなければならない。絶対になくならないからといって「物への欲求」にしがみついていく限り、組合運動の歴史的使命に応えられない時代錯誤に埋没するのは眼に見えている。
組合運動は新たな価値基準に基づく運動の模索の時期に入っている。「自分の物」への欲求に変わるべき新たな欲求に価値を見出さなければならない。組合費を出していない非正規社員にも手を差し伸べようとしている連合運動は、組合運動の歴史的使命に応える新たな価値観に根ざす運動の第一歩となる可能性を秘めている。
参考資料/三井三池争議(フリー百科事典「ウィキペディア」より抜粋)
三井三池炭鉱は、福岡県の三井鉱山系の炭鉱で、太平洋戦争敗戦によるアメリカ占領軍の民主化政策により、1946年(昭和21年)に労働組合が結成された。
もともと三池炭鉱労組は労使協調派の力が強く、労働争議などには消極的な組合であった。しかし、1947年(昭和22年)頃から、九州大学教授の向坂逸郎が頻繁にこの地を訪れるようになり、向坂教室と呼ばれる労働者向けの学校を開いて「資本論」などを講義するようになってから、労組の性格は一変する。向坂は三池炭鉱を来るべき社会主義革命の拠点と考え、「資本論」の教育を通じて戦闘的な活動家の育成を図った。
1953年(昭和28年)、次第にエネルギー源は石炭から石油へと変化し、石炭需要が落ち込みを見せ始めていたことから、三井鉱山は経営合理化のために希望退職を募った。しかし、希望退職者が割り当て数に達しなかったため2,700人を指名解雇した。
このような会社の措置に炭鉱労働者と事務職員がともに反発し共闘。指名解雇に反対しストライキに突入した。ストライキは113日間に及び、ついに会社側は指名解雇を撤回、労働者側の勝利に終わった。
この闘いは当時、「英雄なき113日間の闘い」ともてはやされ、三池労組は一躍その名を高めた。以後、三池労組では労使協調派は力を失い、向坂門下の活動家たちが影響力を振るうこととなった。このストライキの成功によって一部の炭鉱労働者が増長し、事務職員に因縁をつけて吊るし上げたりするようになったため、事務職員は次第に炭鉱労働者との連帯意識を失っていった。
1953年のストライキ以降、経営合理化が進まない三井鉱山の経営はますます悪化していった。このため、三井鉱山は三池炭鉱からの活動家の一掃を決意し、1959年(昭和34年)、6,000人の希望退職を含む会社再建案を提示、同年8月には4,580人の人員削減案を発表。続いて12月2日・3日には1,492人に退職を勧告し、これに応じない1,278人を指名解雇とした。
労組側はこの措置に反発し無期限ストに突入した。一方、会社側も三池鉱山のロックアウトと組合員の坑内立ち入り禁止でこれに対抗した。財界が三井鉱山を全面的に支援した一方、総評は三池労組を全面的に支援したため、三井三池労組は「総資本対総労働の対決」などと呼ばれた。ただし、総労働と言っても、事務職員層は日頃から吊るし上げなどを受けてきた恨みから、今度はストライキに加わらなかった。
ストライキは長期化し、一部の組合員は1960年に第2組合(三池新労)を結成してストライキを離脱する。3月25日にはピケを張っていた三池労組の組合員・久保清氏が暴力団員に刺殺される。三池労組の組合員の約半分が三池新労に加わってストから離脱した。
7月7日、石炭を出荷まで貯めておく貯炭場であるホッパーへの組合員立ち入り禁止の仮処分を福岡地裁が下すと、福岡県警はホッパーを占拠している三池労組組合員を排除するため警官隊を差し向け、ホッパー周辺は一触即発の状態となった。そこで、流血の惨事を恐れた炭労(全国の石炭産業の産業別労働組合)と企業別組合の三池鉱山は中央労働委員会に事態の解決を一任した。
8月10日、中央労働委員会は斡旋案を発表したが、その内容は会社が指名解雇を取り消す代わりに、整理期間の終了を待って、指名解雇された労働者は自然に退職したものとみなすという組合側に圧倒的に不利なものであった。しかし、もはや戦う限界に達していた炭労も総評も斡旋案受諾を決め、11月11日に三池労組は無期限ストライキを解除して、三井三池争議は組合側の敗北に終わった。
その後、国会で炭鉱離職者法が成立、住居の建設と職業訓練が行われた(ちなみに住居建設と職業訓練を目的として「雇用促進事業団」が設立され、後に、今の「雇用能力開発機構」へと変貌していく)。
歴史は書き手の価値観によって描かれる。価値観が違う人が書けば内容も違ってくる。有名な話としては、時代小説でよく取り上げられる仙台伊達藩の「伊達騒動」では、家老原田甲斐は悪人に描かれることが多い。しかし、山本周五郎の「樅の木は残った」では忠臣になっている。忠臣蔵の悪役吉良上野介も地元では有能な領主として評価が高い。身びいき、判官びいきの類とは別に、評価の基準が何かによって結論が違ってくるのは当然なのだ。
私自身の経験でいえば、1955年の「三池争議」(注・下記参考資料参照)を評価するにあたっては、日本のエネルギーが石炭から石油に変わるのは歴史の必然だから、炭鉱の閉山は避けて通れないと考えている。したがって、組合のリーダーも時代の変化を見通し、炭鉱の閉山後の組合員の就職や生活をどのように手助けできるかに精力を注ぐべきだし、あえて組合員に石炭産業の行く末を説得すべきと考える。
だから日本社会が左右のイデオロギー対立の激しい時代環境にあったとはいえ、組合運動としては評価するわけにはいかない。
しかし、これは今の時代から遡って振り返るから言えることで、当時、当事者として組合員に、いくら時代の進歩とはいえ「自分たちの仕事がなくなる」ことを正論として説得できたかを問われれば些か自信はない。
一方、炭鉱閉山を資本の横暴とか、革命の学校と考えれば、反対闘争こそが組合運動の本意になるので私のような考えは非難されて当然になる。
おりしも、世界最大の石油大手企業エッソ石油が日本の石油スタンドから撤退を始めた。石油公害に対するエコカー普及に伴う需要の減退によるものという。日本のエネルギーは薪から石炭へ、石炭から石油へ、そして石油の次は何になるのか、これも時代の要請なのだ。
本号では時代の進歩によって変わっていく物差しの基準を人間の欲望の変化においてもろもろ考えてみたい。時代の進歩とは発展といっても良いのだろうが、その典型的な現象は生活の向上といえる。
この宇宙に地球が生まれ人間が誕生した瞬間から、人間は地球の主人公として自然界にさまざまな手を加えてきた。その動機は「生きるため」であった。生きるために物を食べ、生きるために物を欲し、末永い子孫の繁栄を通じて社会の永続を求めてきた。原始時代の根幹をなす価値観である。食のために狩をし、農耕に労を費やした。
生きることが可能となった人間は、より美味しい食をより多く求め、より多くの物を求めるように欲望を高めていく。
こうした欲望の変化を見るには、はるか原始時代を振り返るまでもない。「生きるため」の苛酷な環境は、ついこの間の終戦直後に経験している。敗戦で疲弊した日本はアメリカ軍の援助の下、朝鮮戦争などの需要に支えられてその後の高度成長の礎を築いた。当時のフィルムをみると分かるように、国内は闇市でごった返し、列車は買出しと称して農村へ出向く人々であふれた。人々は今を生きるために必死であった。当時の労働組合運動のスローガンは「食える賃金」であり、一時金は「越年資金」と称した。組合もまた生きるための運動に取り組んでいたのである。
多くの人が貧しい時代は、皆が同じように生活水準を高めていくことが求められる。生きることに必死な時代は賃金や一時金に査定が入ることを良しとはしない。
やがて経済の成長に合わせて生活も改善されていく。組合のスローガンも「食える賃金」から、「ヨーロッパ並みの賃金」に変わっていく。より高い生活水準を求めていくのである。この時代に入ってもなお、「生きるため」の時代と同じ運動をしていては時代に取り残されてしまう。見事なまでに欲望の変化に沿った運動を進めてきたのである。
やがて日本は名目的には世界トップ水準に入る賃金を実現する。名目的にはというのは、国の賃金水準は為替レートによって左右される側面があるからであり、また、世界一という物価水準によって、必ずしも世界一豊かな生活を営んでいるわけではないからである。が、国際比較ではトップレベルに到達していることに変わりはない。白黒テレビが家庭に普及し始めた頃、画面に映されるホームドラマで、アメリカの家庭で使われている大型テレビ、クリーナー、洗濯機を羨望の眼差しで見て、「我が家にも欲しい」、「家にあれば幸せな自分」になれると、人々は必死に働き、曲がりなりにもいまや多くの家庭で当たり前の必需品になった。
物が満たされ、かつて、そうした生活が幸せの象徴と思っていたにも係わらず、「この生活が幸せとは何かが違う」と感じ始めている。
「物」に象徴された豊かさの基準が見直されようとしている。世界の国民で、自分が幸せと感じている人が一位の国はブータンである。決して物があふれ便利な生活を送っているわけではない。「幸せ」とは「物や便利さを基準」にしていないことは明らかなのである。人間は物への欲望がなくなるわけではない。快適な生活、便利な物を多く持ちたいとも思う反面、それだけが人間の幸せのすべてではないことも知っている。
時代の進歩や発展によって人間の欲望は変化していく。そこそこの生活ができれば、今度は家庭や会社で自分は必要とされているのか、周囲の人は自分をどう評価しているのか、自分は何のために生きているのか、社会から必要とされているのか、仕事にやり甲斐を感じているのか、というように、人は「物」中心の欲望から変わっていくのである。極めて精神的なものに価値を置くようになる。世の中の物差しが変わるのである。人間生活の価値の基準が変化していくのである。
「食える賃金」から「ヨーロッパ並みの賃金」に進化していったように、今、組合運動の価値基準も新たな物差しに変わらなければならない。絶対になくならないからといって「物への欲求」にしがみついていく限り、組合運動の歴史的使命に応えられない時代錯誤に埋没するのは眼に見えている。
組合運動は新たな価値基準に基づく運動の模索の時期に入っている。「自分の物」への欲求に変わるべき新たな欲求に価値を見出さなければならない。組合費を出していない非正規社員にも手を差し伸べようとしている連合運動は、組合運動の歴史的使命に応える新たな価値観に根ざす運動の第一歩となる可能性を秘めている。
参考資料/三井三池争議(フリー百科事典「ウィキペディア」より抜粋)
三井三池炭鉱は、福岡県の三井鉱山系の炭鉱で、太平洋戦争敗戦によるアメリカ占領軍の民主化政策により、1946年(昭和21年)に労働組合が結成された。
もともと三池炭鉱労組は労使協調派の力が強く、労働争議などには消極的な組合であった。しかし、1947年(昭和22年)頃から、九州大学教授の向坂逸郎が頻繁にこの地を訪れるようになり、向坂教室と呼ばれる労働者向けの学校を開いて「資本論」などを講義するようになってから、労組の性格は一変する。向坂は三池炭鉱を来るべき社会主義革命の拠点と考え、「資本論」の教育を通じて戦闘的な活動家の育成を図った。
1953年(昭和28年)、次第にエネルギー源は石炭から石油へと変化し、石炭需要が落ち込みを見せ始めていたことから、三井鉱山は経営合理化のために希望退職を募った。しかし、希望退職者が割り当て数に達しなかったため2,700人を指名解雇した。
このような会社の措置に炭鉱労働者と事務職員がともに反発し共闘。指名解雇に反対しストライキに突入した。ストライキは113日間に及び、ついに会社側は指名解雇を撤回、労働者側の勝利に終わった。
この闘いは当時、「英雄なき113日間の闘い」ともてはやされ、三池労組は一躍その名を高めた。以後、三池労組では労使協調派は力を失い、向坂門下の活動家たちが影響力を振るうこととなった。このストライキの成功によって一部の炭鉱労働者が増長し、事務職員に因縁をつけて吊るし上げたりするようになったため、事務職員は次第に炭鉱労働者との連帯意識を失っていった。
1953年のストライキ以降、経営合理化が進まない三井鉱山の経営はますます悪化していった。このため、三井鉱山は三池炭鉱からの活動家の一掃を決意し、1959年(昭和34年)、6,000人の希望退職を含む会社再建案を提示、同年8月には4,580人の人員削減案を発表。続いて12月2日・3日には1,492人に退職を勧告し、これに応じない1,278人を指名解雇とした。
労組側はこの措置に反発し無期限ストに突入した。一方、会社側も三池鉱山のロックアウトと組合員の坑内立ち入り禁止でこれに対抗した。財界が三井鉱山を全面的に支援した一方、総評は三池労組を全面的に支援したため、三井三池労組は「総資本対総労働の対決」などと呼ばれた。ただし、総労働と言っても、事務職員層は日頃から吊るし上げなどを受けてきた恨みから、今度はストライキに加わらなかった。
ストライキは長期化し、一部の組合員は1960年に第2組合(三池新労)を結成してストライキを離脱する。3月25日にはピケを張っていた三池労組の組合員・久保清氏が暴力団員に刺殺される。三池労組の組合員の約半分が三池新労に加わってストから離脱した。
7月7日、石炭を出荷まで貯めておく貯炭場であるホッパーへの組合員立ち入り禁止の仮処分を福岡地裁が下すと、福岡県警はホッパーを占拠している三池労組組合員を排除するため警官隊を差し向け、ホッパー周辺は一触即発の状態となった。そこで、流血の惨事を恐れた炭労(全国の石炭産業の産業別労働組合)と企業別組合の三池鉱山は中央労働委員会に事態の解決を一任した。
8月10日、中央労働委員会は斡旋案を発表したが、その内容は会社が指名解雇を取り消す代わりに、整理期間の終了を待って、指名解雇された労働者は自然に退職したものとみなすという組合側に圧倒的に不利なものであった。しかし、もはや戦う限界に達していた炭労も総評も斡旋案受諾を決め、11月11日に三池労組は無期限ストライキを解除して、三井三池争議は組合側の敗北に終わった。
その後、国会で炭鉱離職者法が成立、住居の建設と職業訓練が行われた(ちなみに住居建設と職業訓練を目的として「雇用促進事業団」が設立され、後に、今の「雇用能力開発機構」へと変貌していく)。



