ふと手にした雑誌のエッセイ、確か著名な作家のものだったような気がする。高齢化時代の昨今ではよく耳にする「不老長寿」という言葉にまつわるエッセイなのだが、思わず他人事ではない話であったゆえに妙に忘れがたい。
遠く古来、人間は永遠の生命を求めてきた。それは死への恐怖かもしれないし、残される家族への慈しみの心情であったり、愛するものへの思慕の表れなのかもしれないが、永遠の命が約束されていたらどれだけ救われるかと思ってきたはずである。あるいはまた、有名な秦の始皇帝に代表されるような「権力への妄執」から「不老不死」を願う場合もある。自分も加齢してくるに従い、時折命について考えるのも、若い時代とは違った心情になるからなのだろうか。
誰しもが考えている「不老長寿」にまつわるエッセイを記した作者はおおよそ次のように言う。
「『不老長寿』という言葉、この言葉どおりの人生であれば何の不満があろう。しかし、残念なことに、人間は医学の進歩で『長寿』は実現できても『不老』は避けられないのだ。日常生活にさまざまな『老い』の現象が出てくると、そこまでして『長寿』でいることが幸せなのか疑問を感じる。排泄機能も不自由になり、家族に迷惑や不快を与えてまで、『長寿でいたいとは思わないのだが』…」
人が一年に一歳、加齢していくことは避けられない現象だ。避けられない現象を持って処遇に差をつけることは差別として戒められる。どんな理由をつけても「チョッと待って」と今の年齢のままでいることはできない。誰しもが同じ定めに従っている。
本題から外れるが、この誰しもが従わなければならない加齢による年齢を理由にした差別に「定年」がある。定年65歳とは、65歳まで勤められる制度ではなく、65歳になったら解雇される制度なのである。差別問題には、こうした考え方が必要なのである。すでにアメリカではこうした論拠に基づき「定年は年齢差別」としてエイジレスを実現している。本人から退職の意思表示がない限り、就業を続けていけるのである。もちろん、アメリカには一方でレイ・オフ制度など、日本よりも解雇が容易な制度があり、それらを含めて全体でバランスをとっている。
この一事から見ても、国家間の社会制度の比較にはある一つの制度を抜き出しにするのではなく、全体の制度を比較しなければならないことが良く分かる。
本題に戻ろう。加齢による変化は何も肉体的なことや生理的な機能の問題にとどまらない。最近では、つくづく加齢が精神的な分野にも及んできたようだ。「やる気」とか「活動的」とか言うことではなく、仕事以外では難しい問題を考えるのが億劫に感じるようになってきた。
若かりし頃は、仕事に関係した本はもちろん、難解な言葉の羅列であっても、人間の心理を「これまでか、これまでか」と追及して、憂鬱な読後感に苛まれても苦にはならなかったのだが、最近は頓(とみ)に疲れを覚えてしまう。精神的に爽快な気分にしてくれる本を捜し求めているうちに、いつしか時代劇一色の読書に終始している自分を発見した。
理由は簡単だ。「勧善懲悪」、中にはそうでない物語もあるのだろうが、幸いにも手にした本はいずれも単純明快な筋書きのものだ。テレビドラマになった「水戸黄門」などが典型的なもので、テレビで○時○○分に印籠を取り出して悪代官を懲らしめると分かっていて、最後のその時間になるとスイッチを入れる人さえいるという。貧しい弱者を理不尽な権力者から救う「勧善懲悪」の物語は、日常社会で似たような境遇にあるや否やや、あるいは天下の副将軍が印籠を出せば悪漢たちが地に伏すのに、暴れん坊将軍の吉宗の場合には、将軍と分かってから反抗して斬り合いになるのは理に適わないなどという理屈は考えない。よく言う理屈抜きで、ただひたすら楽しんで時間を潰す読書なのだ。
人は一生を通して学び続ける人生を送るのだが、宮本武蔵の「我以外皆師」の言葉ではないが、他人から得ることは多い。自分の人生は自分が一番知っている。同じように他人もその人の人生はその人が一番知っているわけだから、他人の人生や考え方を知ることはかけがえの無いことだ。「他人と知り合える」とは「他人から教わる」ことと同義語だ。だとしたら、他人と知り合えるチャンスを与えられた人はこの上ない幸せということになる。
しかし実社会で他人と知り合えるチャンスには限界がある。そのチャンスの限界を超えさせてくれるものが本なのである。本には著者の人生観やものを観る眼が詰まっている。それを知らなければ自分の人生にとって損になる。読書が勧められるのにはそうした意義があるからなのだろう。
そう思うと、何か漫然と字面を追ってきた今までの読書が無駄であったかと後悔してしまうが、それでは若い頃の読書はどうだったのかを問われればおよそ自信が無い。でもやはり「人の心の中をひねくり回して」とまでは言わないまでも、それに近い手法で物語が続くと心は暗くなり心理的な抵抗感が起きてしまう。どうも加齢によって読む本までもが変化してきたようだ。
遠く古来、人間は永遠の生命を求めてきた。それは死への恐怖かもしれないし、残される家族への慈しみの心情であったり、愛するものへの思慕の表れなのかもしれないが、永遠の命が約束されていたらどれだけ救われるかと思ってきたはずである。あるいはまた、有名な秦の始皇帝に代表されるような「権力への妄執」から「不老不死」を願う場合もある。自分も加齢してくるに従い、時折命について考えるのも、若い時代とは違った心情になるからなのだろうか。
誰しもが考えている「不老長寿」にまつわるエッセイを記した作者はおおよそ次のように言う。
「『不老長寿』という言葉、この言葉どおりの人生であれば何の不満があろう。しかし、残念なことに、人間は医学の進歩で『長寿』は実現できても『不老』は避けられないのだ。日常生活にさまざまな『老い』の現象が出てくると、そこまでして『長寿』でいることが幸せなのか疑問を感じる。排泄機能も不自由になり、家族に迷惑や不快を与えてまで、『長寿でいたいとは思わないのだが』…」
人が一年に一歳、加齢していくことは避けられない現象だ。避けられない現象を持って処遇に差をつけることは差別として戒められる。どんな理由をつけても「チョッと待って」と今の年齢のままでいることはできない。誰しもが同じ定めに従っている。
本題から外れるが、この誰しもが従わなければならない加齢による年齢を理由にした差別に「定年」がある。定年65歳とは、65歳まで勤められる制度ではなく、65歳になったら解雇される制度なのである。差別問題には、こうした考え方が必要なのである。すでにアメリカではこうした論拠に基づき「定年は年齢差別」としてエイジレスを実現している。本人から退職の意思表示がない限り、就業を続けていけるのである。もちろん、アメリカには一方でレイ・オフ制度など、日本よりも解雇が容易な制度があり、それらを含めて全体でバランスをとっている。
この一事から見ても、国家間の社会制度の比較にはある一つの制度を抜き出しにするのではなく、全体の制度を比較しなければならないことが良く分かる。
本題に戻ろう。加齢による変化は何も肉体的なことや生理的な機能の問題にとどまらない。最近では、つくづく加齢が精神的な分野にも及んできたようだ。「やる気」とか「活動的」とか言うことではなく、仕事以外では難しい問題を考えるのが億劫に感じるようになってきた。
若かりし頃は、仕事に関係した本はもちろん、難解な言葉の羅列であっても、人間の心理を「これまでか、これまでか」と追及して、憂鬱な読後感に苛まれても苦にはならなかったのだが、最近は頓(とみ)に疲れを覚えてしまう。精神的に爽快な気分にしてくれる本を捜し求めているうちに、いつしか時代劇一色の読書に終始している自分を発見した。
理由は簡単だ。「勧善懲悪」、中にはそうでない物語もあるのだろうが、幸いにも手にした本はいずれも単純明快な筋書きのものだ。テレビドラマになった「水戸黄門」などが典型的なもので、テレビで○時○○分に印籠を取り出して悪代官を懲らしめると分かっていて、最後のその時間になるとスイッチを入れる人さえいるという。貧しい弱者を理不尽な権力者から救う「勧善懲悪」の物語は、日常社会で似たような境遇にあるや否やや、あるいは天下の副将軍が印籠を出せば悪漢たちが地に伏すのに、暴れん坊将軍の吉宗の場合には、将軍と分かってから反抗して斬り合いになるのは理に適わないなどという理屈は考えない。よく言う理屈抜きで、ただひたすら楽しんで時間を潰す読書なのだ。
人は一生を通して学び続ける人生を送るのだが、宮本武蔵の「我以外皆師」の言葉ではないが、他人から得ることは多い。自分の人生は自分が一番知っている。同じように他人もその人の人生はその人が一番知っているわけだから、他人の人生や考え方を知ることはかけがえの無いことだ。「他人と知り合える」とは「他人から教わる」ことと同義語だ。だとしたら、他人と知り合えるチャンスを与えられた人はこの上ない幸せということになる。
しかし実社会で他人と知り合えるチャンスには限界がある。そのチャンスの限界を超えさせてくれるものが本なのである。本には著者の人生観やものを観る眼が詰まっている。それを知らなければ自分の人生にとって損になる。読書が勧められるのにはそうした意義があるからなのだろう。
そう思うと、何か漫然と字面を追ってきた今までの読書が無駄であったかと後悔してしまうが、それでは若い頃の読書はどうだったのかを問われればおよそ自信が無い。でもやはり「人の心の中をひねくり回して」とまでは言わないまでも、それに近い手法で物語が続くと心は暗くなり心理的な抵抗感が起きてしまう。どうも加齢によって読む本までもが変化してきたようだ。



