労働組合運動にとって組合員の処遇のあり方は、雇用確保に次ぐ大事な問題である。戦前・戦中時代、治安維持法によって禁止されていた労働組合が、敗戦によるアメリカ軍の民主化要求の一つとして結成が促進され、1945年以降、例えは悪いが、「雨後の筍」のごとく日本全国で労働組合が結成された。この時期は荒廃した国土の中、会社自体の存続も危ぶまれ、働く場所があれば恵まれた境遇とまでいわれていた。当然のように組合のスローガンは、「食える賃金」、「越年資金」に収斂されるほど、「生きるため」の運動として、賃金や一時金闘争中心のみに特化していた。良くも悪くも、日本の伝統的処遇である年功型賃金体系は、同じように仕事をこなせても、年齢が高ければ高いほど、勤続が長ければ長いほど賃金水準は高いという問題をはらんでいたが、年齢や勤続による賃金の格差には問題意識も持たれず、当たり前の制度として社会にも容認されていた。社会全体で容認していた制度や格差は他にも多々ある。さまざまにある男女差別も当初は差別と言う意識もなく、日本社会では当たり前のものとして受け入れていた。定年制度も同様に、「年齢で解雇される年齢差別」などという意識もなく受け入れていた(今でもそうだが)。古くは当たり前の制度・慣習として、あるいは考え方として社会で受け入れてきたものを、文明の進歩に伴う人間の意識変化によって修正してきた。当時は年功型処遇を年齢や勤続による差別的制度などと考える余地もなかった。こうしたことに照らして考えると、差別とはその時代の社会が容認しているのか否かによって変わるものだということが分かる。今までは差別も区別も明確に区分けせず、しかも、何を基準に「修正すべき差別的制度」とするかさえ、話題にもならなかった。そういう社会の風潮だったのである。
ところが、生活水準の向上もあいまって人々の意識も大きく進歩・変化をし、今まで当たり前であった仕組みの矛盾に気がつき、旧来の考え方に異論が出るようになる。年功型賃金体系一つとっても、企業の利益を生み出す職種・年齢が微妙に変化してくると、年齢や勤続による処遇格差は矛盾ある制度として修正を余儀なくされるようになる。今まで熟練が必要とされた職種であっても、生産方法が変更されたり、機械化がはかられたり、より簡単な作業に取って代わられたりすれば、同じ仕事をしているのに年齢や勤続で処遇に差があることに批判が生まれてくる。年功型処遇が通用しなくなる瞬間である。そして近代化した会社の中で、企業の付加価値を生み出す源泉が、熟練ではなく技術開発などに置き換われば、年功型処遇は批判に晒される。もちろん今もって熟練が機能する職種も多い。だとすれば同一企業内のすべての職種を年功型処遇でひとくくりにするのも矛盾があるし、そうでない新たな制度でひとくくりするのも矛盾があるのだから、企業には処遇制度を複線型にする必要性に迫られてくる。それぞれの職種の性格に応じた複数の処遇制度で全体を網羅する考え方である。
このように何が差別なのかは時代が決めるともいえるが、人が努力して変えられることで処遇に差をつけるのは単なる区別である。たとえば、初任給の学歴差を見ればわかる。中学卒・高校卒・大学卒・大学院卒は、人の選択によって決まってくる。現代は努力すれば高校に入学することも、大学に入学することも可能な社会だから、学歴によって初任給に差をつけることは「区別」であって、「差別」にはならない。しかし、たとえば、男が女になること、女が男になることは、どんなに努力してもできない。努力してもできないことの結果をもって処遇に差をつけるのは「差別」だから、男女格差は「差別」になるのである。決して「区別」ではない。2010年12月発行の本欄でも記した「定年」も、人は努力しても一年・一歳の加齢は避けられないから、加齢によって訪れる定年をもって職を解くのは「年齢差別」として扱われる。これは昔とは多少意識が違ってきたものの、今もって万人が共感しているわけではないが、やがて「定年は年齢差別」という意識は社会の常識になっていくであろう。
人間社会というのは、今突飛で異端な意見であっても、30年後、50年後には社会の常識になる可能性を持っている。年功型処遇が年齢や勤続による格差とならないのは、現在の社会が容認しているからである。ということは、今抵抗がある制度でも、社会全体が容認する時代になればその制度は機能することになる。そして社会が変わるということは、人々の意識が変化することで社会を変化させていくケースと、意識とは別に強引に社会の制度を変えてしまって人々の意識を変えさせることもある。たとえば流行の坂本龍馬等による明治維新も、民主主義による多数決、国民の意識の変化を待って成し遂げようとしたとすれば、永遠に実現することはなかったであろう。現代のセクハラも然りである。前者は明治維新という革命の手段によって、後者は法律によって決めたがゆえに、いずれも実現しえたと言えるのである。意識の変化を待っていたら、今もチョンマゲを結い刀を差していたかもしれないし、職場の宴会で「俺の酒が飲めないのか」と言う男に不快を感じる時代が続いていたに違いない。時代の変化、進歩とは、人々の意識が変化して起こす場合もあれば、先に環境を変えて意識をそれに合わせて変えさせる場合、あるいは双方の相互作用によって変わっていく場合があるのだ。
すると、賃金についても、同じ価値を持つ仕事なのに、年齢や勤続、あるいは正規・非正規、あるいは男と女などの理由で処遇に差がつく矛盾を解決するためにはどうすればいいのか。ある産業別組合が提唱する「職種別賃金」は、これらの矛盾を解決する糸口になるのは間違いない。職種別賃金、すなわち、今は仕事・職種によって賃金に差がつくことへの抵抗は大きいが、それを社会が容認するようになれば、職種によって賃金に差がつくことに抵抗はなくなる道理だ。しかし、何でも変えればいいというものではないから、将来を洞察しつつ、あるべき姿として変える必要があるとすれば、リーダーは絶えず変革を訴えていかなければならない。今更苦労をしたくないと、旧来のシステムに安住したい保守性を持つのも人間の業、ゆえに変革は困難を伴うし意味を持つのである。それこそが組合員の処遇に最善をつくべき労働組合リーダーに求められているあり方なのである。
ところが、生活水準の向上もあいまって人々の意識も大きく進歩・変化をし、今まで当たり前であった仕組みの矛盾に気がつき、旧来の考え方に異論が出るようになる。年功型賃金体系一つとっても、企業の利益を生み出す職種・年齢が微妙に変化してくると、年齢や勤続による処遇格差は矛盾ある制度として修正を余儀なくされるようになる。今まで熟練が必要とされた職種であっても、生産方法が変更されたり、機械化がはかられたり、より簡単な作業に取って代わられたりすれば、同じ仕事をしているのに年齢や勤続で処遇に差があることに批判が生まれてくる。年功型処遇が通用しなくなる瞬間である。そして近代化した会社の中で、企業の付加価値を生み出す源泉が、熟練ではなく技術開発などに置き換われば、年功型処遇は批判に晒される。もちろん今もって熟練が機能する職種も多い。だとすれば同一企業内のすべての職種を年功型処遇でひとくくりにするのも矛盾があるし、そうでない新たな制度でひとくくりするのも矛盾があるのだから、企業には処遇制度を複線型にする必要性に迫られてくる。それぞれの職種の性格に応じた複数の処遇制度で全体を網羅する考え方である。
このように何が差別なのかは時代が決めるともいえるが、人が努力して変えられることで処遇に差をつけるのは単なる区別である。たとえば、初任給の学歴差を見ればわかる。中学卒・高校卒・大学卒・大学院卒は、人の選択によって決まってくる。現代は努力すれば高校に入学することも、大学に入学することも可能な社会だから、学歴によって初任給に差をつけることは「区別」であって、「差別」にはならない。しかし、たとえば、男が女になること、女が男になることは、どんなに努力してもできない。努力してもできないことの結果をもって処遇に差をつけるのは「差別」だから、男女格差は「差別」になるのである。決して「区別」ではない。2010年12月発行の本欄でも記した「定年」も、人は努力しても一年・一歳の加齢は避けられないから、加齢によって訪れる定年をもって職を解くのは「年齢差別」として扱われる。これは昔とは多少意識が違ってきたものの、今もって万人が共感しているわけではないが、やがて「定年は年齢差別」という意識は社会の常識になっていくであろう。
人間社会というのは、今突飛で異端な意見であっても、30年後、50年後には社会の常識になる可能性を持っている。年功型処遇が年齢や勤続による格差とならないのは、現在の社会が容認しているからである。ということは、今抵抗がある制度でも、社会全体が容認する時代になればその制度は機能することになる。そして社会が変わるということは、人々の意識が変化することで社会を変化させていくケースと、意識とは別に強引に社会の制度を変えてしまって人々の意識を変えさせることもある。たとえば流行の坂本龍馬等による明治維新も、民主主義による多数決、国民の意識の変化を待って成し遂げようとしたとすれば、永遠に実現することはなかったであろう。現代のセクハラも然りである。前者は明治維新という革命の手段によって、後者は法律によって決めたがゆえに、いずれも実現しえたと言えるのである。意識の変化を待っていたら、今もチョンマゲを結い刀を差していたかもしれないし、職場の宴会で「俺の酒が飲めないのか」と言う男に不快を感じる時代が続いていたに違いない。時代の変化、進歩とは、人々の意識が変化して起こす場合もあれば、先に環境を変えて意識をそれに合わせて変えさせる場合、あるいは双方の相互作用によって変わっていく場合があるのだ。
すると、賃金についても、同じ価値を持つ仕事なのに、年齢や勤続、あるいは正規・非正規、あるいは男と女などの理由で処遇に差がつく矛盾を解決するためにはどうすればいいのか。ある産業別組合が提唱する「職種別賃金」は、これらの矛盾を解決する糸口になるのは間違いない。職種別賃金、すなわち、今は仕事・職種によって賃金に差がつくことへの抵抗は大きいが、それを社会が容認するようになれば、職種によって賃金に差がつくことに抵抗はなくなる道理だ。しかし、何でも変えればいいというものではないから、将来を洞察しつつ、あるべき姿として変える必要があるとすれば、リーダーは絶えず変革を訴えていかなければならない。今更苦労をしたくないと、旧来のシステムに安住したい保守性を持つのも人間の業、ゆえに変革は困難を伴うし意味を持つのである。それこそが組合員の処遇に最善をつくべき労働組合リーダーに求められているあり方なのである。



