明治・大正時代の文豪、夏目金之助は俳句の師である正岡子規が使っていた「漱石」のペンネームを譲り受け、夏目漱石と称するようになった。「漱石」というペンネームは中国の唐代、「晋書」の漱石枕流(そうせきちんりゅう)の話からとったものだが、世捨て人になろうとしていた人が、「石を枕にし、流れに漱(くちすす)ぐ」と言おうとして、逆に、「石に漱ぎ、流れを枕にす」と言ってしまい、それをからかわれたとき、「流れを枕にするのは耳を洗うため、石に漱ぐのは歯を磨くためだ」と言い張ったという笑話で、だから「漱石」というのは「負け惜しみが強いこと」や「変わり者」の例えに使われる。中国五世紀頃の南北朝時代の話だが、私たちのよく使う「矛盾」と並ぶ中国の有名な話だ。
このような笑話にもお国柄があるようで、日本人の笑いとは些か異質のようである。笑いは人間だけの専売特許ではなく、犬や猫などの動物も笑うそうだが、顔の筋肉が発達してないために表情が出ないだけだという。もともと人間が笑うというのは、愉快なとき、滑稽なとき、相手を嘲るとき、相手と協調するときというのが一般的で、あとは赤ん坊のように快感で笑うときもある。またこのほかにも照れ笑い、苦笑というように、日本人は恥ずかしいとき、相手の意向を拒否したり残念なとき、時には悲しいといっては笑うことすらもあるが、これら後者の笑いは外国人には理解できないらしい。
この笑いの歴史を遡ると古代まで至るが、笑いが商品として登場するのは江戸時代、俗にいう噺家(はなしか)で、笑いの乏しい封建時代にあって、民衆の解放感の欲求に応えることを目的に生まれた。民衆の欲求の解消といえば、かつての共産主義時代のソ連で、ボリショイサーカスを一物二価(一つのものに二つの価格があること。同じものであるにも拘らず、国民には安価で提供し、外国人には高価格で提供する方式)の典型的な娯楽として提供していたのも、自由のない全体主義国家に対する国民の不満を雲散霧消させることを目的としていたし、中国の雑技団も同様の目的で運営されていた。しかし、本来の笑いは、封建時代の権力から、心の上で一時的にでも逃れるためのもので、権力者が国民の不満や要求を逸らすためのものではなかった。むしろ、笑いは潜在的に強いものへの抵抗や風刺を内在したもので、それが人間の感情の機微にふれると人情噺として評判を呼ぶことになる。
人間は遠く古の時代から、毎日を真面目くさく哲学的に送ることはできない。時には日常の苦楽から離れて心を開放させて「のんびり時を過ごす」ことも必要としている。すべてを忘れひたすら時の移ろいに身を委ねることも無駄にはならない。そのときに、芸人の話術に感心し笑いに時を過ごすことは意味があるが、最近のテレビで持て囃される漫才やコントには、強いものへの抵抗や風刺は影を潜めているから、ただうるさいだけの番組になりがちである。次から次へと登場する芸人が栄枯盛衰のごとく替わっていく様は、人間の使い捨て、もっともそれを承知で芸人を目指しているようだから異論を唱えたところで意味はないが、それにしてもワアワア大騒ぎする番組の多いことか。噂によれば、昔のようにテレビ局自体が多額の費用をかけて番組を編成するよりも、芸人を使うことが安直で手っ取り早い番組を作るコツでもあるという。それだけ編集者に能力がなくなったからなのか、安価に済ます(企業経営でいえばコストダウンの)知恵なのか知る由もないが(もっとも今の韓流ドラマの花盛りも、国内の制作費に比して安価に輸入できるからだが)、アナウンサーが落ち着いて伝えるニュース番組ももう昔話になってしまったようだ。真面目の見本であったNHKですら、「NHKよ、お前もか」とばかりにお笑い芸人を出演させない日はない。どうも傾向として地上波は一億総白痴化をめざす番組に特化し、「落ち着いてみるなら衛星放送」を見ろ、との目的を持っているのかと思ってみたりする。
社会評論家の大宅壮一氏の名言「一億総白痴化」は、1957年2月2日号の「週刊東京」で語ったもので、その意図するところは、「日本国民が、テレビで伝えられる情報を自らが正しいのかどうかを考え判断する思考能力が著しく低下している」状況に警鐘を鳴らしたもので、それ以降流行語になったものである。「テレビというメディアは非常に低俗で、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう。テレビは紙芝居以下の白痴番組が繰り返され、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、日本国民は『一億総白痴化』にならんとしている」という様は、今も改善されずに毎日放映されている。
テレビ批判は措くとして、私は昔から、実はビートたけしのファンを任じてきた。支部組合の役員時代、組合の結成行事のアトラクションに当時売り出し前の漫才コンビ「ツービート」を企画したのを懐かしく思い出す。彼の笑いには一種の心地よさを感じていたし、彼の部屋に夢枕獏と、吉本隆明の本が無造作に置いてあったというある記事を読んでから、あるいは映画製作などに奇才を発揮している昨今の様子を見て彼自身に余計に興味を抱くようになったものだが、一つだけ気がかりであったのが、他人に対する悪口の類の話が多いことであった。最近はこれも年のせいなのか、ずいぶんと少なくなってきたように思うが、まるで代替わりしたように、持て囃されている若い芸人の笑いは愉快や滑稽とは無縁な、相手を嘲(あざけ)るものばかりだ。それ自体は笑いに違いないものの、強いものへの抵抗とか風刺は影を潜めてしまった。かわりに弱いものを徹底的に「いじめ」る笑いであるのが恐ろしい。お年寄りをババア、ジジイといって嘲笑し、ブス、デブと、軽蔑用語が連発される。ついでに言えば、組合役員になって「話し方」の勉強をしたとき、いかに笑いをとるためといっても「下ネタ」は禁句と言われていたのに、プロの芸人が公器であるテレビで「下ネタ」を連発するにいたっては「何をかいわんや」である。
あえて皮肉を言えば、本人の前ではタブー視されてきた蔑称を言うことによって、私のようなデブが、デブを恥としない気の強さを訓練する機会になる効能もあるのだが、そんなことよりも一番怖いのが、弱いものを徹底的に「いじめ」ることによる笑いが、日常の中で当たり前になっていることである。
芸人同士がお互いに「いじめ」合う番組に手をたたいて笑い喜ぶ大人たち、そうした環境の中で育った子どもたちが、学校で他人の悪口を平然と口にするのを誰が非難できるだろうか。自殺者まで出す学校の「いじめ」の根源は、実は私たちの何気ない日常生活に潜んでいるような気がしてならない。
こんな日本の現状を観て夏目漱石は天上で憂えているに違いない。
(2011年3月10日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)
このような笑話にもお国柄があるようで、日本人の笑いとは些か異質のようである。笑いは人間だけの専売特許ではなく、犬や猫などの動物も笑うそうだが、顔の筋肉が発達してないために表情が出ないだけだという。もともと人間が笑うというのは、愉快なとき、滑稽なとき、相手を嘲るとき、相手と協調するときというのが一般的で、あとは赤ん坊のように快感で笑うときもある。またこのほかにも照れ笑い、苦笑というように、日本人は恥ずかしいとき、相手の意向を拒否したり残念なとき、時には悲しいといっては笑うことすらもあるが、これら後者の笑いは外国人には理解できないらしい。
この笑いの歴史を遡ると古代まで至るが、笑いが商品として登場するのは江戸時代、俗にいう噺家(はなしか)で、笑いの乏しい封建時代にあって、民衆の解放感の欲求に応えることを目的に生まれた。民衆の欲求の解消といえば、かつての共産主義時代のソ連で、ボリショイサーカスを一物二価(一つのものに二つの価格があること。同じものであるにも拘らず、国民には安価で提供し、外国人には高価格で提供する方式)の典型的な娯楽として提供していたのも、自由のない全体主義国家に対する国民の不満を雲散霧消させることを目的としていたし、中国の雑技団も同様の目的で運営されていた。しかし、本来の笑いは、封建時代の権力から、心の上で一時的にでも逃れるためのもので、権力者が国民の不満や要求を逸らすためのものではなかった。むしろ、笑いは潜在的に強いものへの抵抗や風刺を内在したもので、それが人間の感情の機微にふれると人情噺として評判を呼ぶことになる。
人間は遠く古の時代から、毎日を真面目くさく哲学的に送ることはできない。時には日常の苦楽から離れて心を開放させて「のんびり時を過ごす」ことも必要としている。すべてを忘れひたすら時の移ろいに身を委ねることも無駄にはならない。そのときに、芸人の話術に感心し笑いに時を過ごすことは意味があるが、最近のテレビで持て囃される漫才やコントには、強いものへの抵抗や風刺は影を潜めているから、ただうるさいだけの番組になりがちである。次から次へと登場する芸人が栄枯盛衰のごとく替わっていく様は、人間の使い捨て、もっともそれを承知で芸人を目指しているようだから異論を唱えたところで意味はないが、それにしてもワアワア大騒ぎする番組の多いことか。噂によれば、昔のようにテレビ局自体が多額の費用をかけて番組を編成するよりも、芸人を使うことが安直で手っ取り早い番組を作るコツでもあるという。それだけ編集者に能力がなくなったからなのか、安価に済ます(企業経営でいえばコストダウンの)知恵なのか知る由もないが(もっとも今の韓流ドラマの花盛りも、国内の制作費に比して安価に輸入できるからだが)、アナウンサーが落ち着いて伝えるニュース番組ももう昔話になってしまったようだ。真面目の見本であったNHKですら、「NHKよ、お前もか」とばかりにお笑い芸人を出演させない日はない。どうも傾向として地上波は一億総白痴化をめざす番組に特化し、「落ち着いてみるなら衛星放送」を見ろ、との目的を持っているのかと思ってみたりする。
社会評論家の大宅壮一氏の名言「一億総白痴化」は、1957年2月2日号の「週刊東京」で語ったもので、その意図するところは、「日本国民が、テレビで伝えられる情報を自らが正しいのかどうかを考え判断する思考能力が著しく低下している」状況に警鐘を鳴らしたもので、それ以降流行語になったものである。「テレビというメディアは非常に低俗で、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう。テレビは紙芝居以下の白痴番組が繰り返され、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、日本国民は『一億総白痴化』にならんとしている」という様は、今も改善されずに毎日放映されている。
テレビ批判は措くとして、私は昔から、実はビートたけしのファンを任じてきた。支部組合の役員時代、組合の結成行事のアトラクションに当時売り出し前の漫才コンビ「ツービート」を企画したのを懐かしく思い出す。彼の笑いには一種の心地よさを感じていたし、彼の部屋に夢枕獏と、吉本隆明の本が無造作に置いてあったというある記事を読んでから、あるいは映画製作などに奇才を発揮している昨今の様子を見て彼自身に余計に興味を抱くようになったものだが、一つだけ気がかりであったのが、他人に対する悪口の類の話が多いことであった。最近はこれも年のせいなのか、ずいぶんと少なくなってきたように思うが、まるで代替わりしたように、持て囃されている若い芸人の笑いは愉快や滑稽とは無縁な、相手を嘲(あざけ)るものばかりだ。それ自体は笑いに違いないものの、強いものへの抵抗とか風刺は影を潜めてしまった。かわりに弱いものを徹底的に「いじめ」る笑いであるのが恐ろしい。お年寄りをババア、ジジイといって嘲笑し、ブス、デブと、軽蔑用語が連発される。ついでに言えば、組合役員になって「話し方」の勉強をしたとき、いかに笑いをとるためといっても「下ネタ」は禁句と言われていたのに、プロの芸人が公器であるテレビで「下ネタ」を連発するにいたっては「何をかいわんや」である。
あえて皮肉を言えば、本人の前ではタブー視されてきた蔑称を言うことによって、私のようなデブが、デブを恥としない気の強さを訓練する機会になる効能もあるのだが、そんなことよりも一番怖いのが、弱いものを徹底的に「いじめ」ることによる笑いが、日常の中で当たり前になっていることである。
芸人同士がお互いに「いじめ」合う番組に手をたたいて笑い喜ぶ大人たち、そうした環境の中で育った子どもたちが、学校で他人の悪口を平然と口にするのを誰が非難できるだろうか。自殺者まで出す学校の「いじめ」の根源は、実は私たちの何気ない日常生活に潜んでいるような気がしてならない。
こんな日本の現状を観て夏目漱石は天上で憂えているに違いない。
(2011年3月10日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)



