世界各国、国民性を表すたとえ話が多く実に面白いものだと思う。その中で記憶に残るものにこんな話がある。スイスの大学で、パンダについての論文を宿題に出したところ、各国の学生から次のような論文が提出された。
ドイツ人は「動物学にみたパンダ論序説」、イギリス人は「パンダ絶滅予防についての一考察」、フランス人からは「パンダの愛とセックス」、イタリア人は「パンダは何を食べるか」、中国人は「共産主義外交とパンダの果たす役割」、アメリカ人は「パンダの商品価値について」などというものであった。哲学の国ドイツ、動物愛護運動が盛んなイギリス、愛を語らせたら世界一といわれるフランス人、オードブルにスパゲティを食べる大食漢のイタリア人、したたかな外交と評される中国、経済大国のアメリカと、お国柄が出ている小噺である。
さしずめ日本人だったら、「各国の学生はパンダについてどのような論文を書くか」を書くかもしれない。
国民性から見た日本人は、極めて勤勉といわれるが、この勤勉さは、日本における潜在的な仏教的思考によるとの考えが圧倒的である。世界の四大宗教といっても、モーゼの十戒に代表されるユダヤ教があって、そこからキリスト教が生まれ、そのあと、同じユダヤ教からイスラム教が生まれ、そのいずれもが一神教として、他の神、宗教を認めずに排他的であったのに対し、仏教は寛容の宗教といわれ、日本人の国民性に密着しやすかったようだ。
仏教論は専門家に委ねるとしても、私たちの日常生活に浸透している仏教的思考は、生存中に悪さをすれば「地獄」に落ち、「良い行いをしていれば極楽にいける」という、極楽は自分の心の中にあると考えることであり、輪廻(りんね・前の世での善悪の行為によって今日の自分がある)によって、来世のために今を精一杯に生きるという考えを持つ。他人の生き方も認め、自分の在り方を問う宗教ゆえに、寛容の宗教といわれるのだが、こうした考えから、働くことは自分のためという意識を作り出す。
仏教の一宗派である禅は、日本人を知る上で貴重な手懸かりといわれ、外国人の関心が高まっているが、その中にもこんな話がある。
鎌倉時代末期、刀匠として名高い正宗の刀と、弟子の村正の刀とで、どちらの斬れ味が鋭いか実験することになった。
ちなみに、正宗の刀は芸術性の高い作刀で後世の刀鍛冶に大きな影響を与えたといわれ、どういうわけか正宗の作った刀は無銘のものが多く、いまでも正宗という銘が入っている刀は稀で、短刀が数刀、それ以外はほぼ存在していない「幻の刀」といわれている。その為か正宗作と鑑定された刀はほとんどが国宝、もしくは重要文化財となっている。正宗は代々引き継がれその子孫は現在も鎌倉で刀鍛冶を営んでいる。
一方、村正にまつわる言い伝え、家康の祖父松平清康が家臣の安倍正豊に刺殺された短刀が村正、家康の父松平広忠が片目弥八によって殺害されたのも村正(岡崎領主古記)、家康の嫡子、松平信康が織田信長の命令で切腹させられたとき、介錯人の服部正成が腰に差していた刀も村正、家康夫人築山御前を小藪村で野中重政が殺害して斬った刀も村正、真田幸村が大阪夏の陣で家康の本陣を急襲して家康に投げつけた刀も村正という伝承。このように徳川家と対立する者には縁起物の刀として大事にされた。幕府転覆計画が露見して処刑された由比正雪が持っていた刀も村正で、徳川家にとっては好ましからざる刀、凶を呼ぶ不吉な「妖刀」として持つことが禁止されていた。
両者を見比べただけで、正宗と村正の評価が分ろうというものだが、不吉といわれる村正の刀の方が、正宗にも引けを取らない斬れ味を持つとされていた。
さて、両者の刀の斬れ味は如何にと、静かに流れる小川で実験することになった。小川の流れの中、刃先を川上に向けて刀を立てる。川上から木の葉を流すと、村正の刃先にふれた葉は見事に真っ二つに切れる。師匠の村正の方はと見れば、木の葉は、その刃先にふれようとした瞬間、木の葉は刀の威厳に怖れをなしたかのように、よけて流れてしまった(鈴木大拙「禅と日本文化」)。
正宗は鎌倉後期、村正は室町中期の刀匠だから時代が違う上に、両者の作風は全然違うのでこの話は単なる逸話、俗説の類に入るものだが、禅の真髄を表す話しとして、そして日本人の勤労観を著すために生まれた逸話のようである。
日本人の勤労観とは、仕事を通じて人格を高めることであり、作業者の人格が、仕事(製品)の中に生きるというものである。この思想は遥か遠い昔のものではなく今も脈々と受け継がれている。労働がもつ二面性、一つは、労働を提供して賃金を得るという「経済的側面」、一つは、労働を通じて人間関係の構築や人格の育成をはかり、仕事への「やり甲斐」を意識しつつ、人生の「生き甲斐」を醸成することにある。
正宗の刀は、正宗の人格を反映しているがゆえに、木の葉は作者の人格に畏怖を抱いて避けてしまったということか。反対に人格で劣る村正の刀には、恐れもせずにただその鋭い切れ味に身をゆだねたということなのだろう。
労働には「経済的側面」と「精神的側面」があり、こうした二つの性格を持っているとき、労働組合が、精神的側面を無視したり軽視して、「カネ」だけを求める「経済的側面」のみに執着したとき、組合員から「やり甲斐」や「生き甲斐」を奪い取ってしまうことになる。
21世紀は、「やり甲斐」や「生き甲斐」を重視する時代なのだ。それこそが多くの労働組合が掲げる「真」の「豊かさ」なのである。
(2011年8月13日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)
ドイツ人は「動物学にみたパンダ論序説」、イギリス人は「パンダ絶滅予防についての一考察」、フランス人からは「パンダの愛とセックス」、イタリア人は「パンダは何を食べるか」、中国人は「共産主義外交とパンダの果たす役割」、アメリカ人は「パンダの商品価値について」などというものであった。哲学の国ドイツ、動物愛護運動が盛んなイギリス、愛を語らせたら世界一といわれるフランス人、オードブルにスパゲティを食べる大食漢のイタリア人、したたかな外交と評される中国、経済大国のアメリカと、お国柄が出ている小噺である。
さしずめ日本人だったら、「各国の学生はパンダについてどのような論文を書くか」を書くかもしれない。
国民性から見た日本人は、極めて勤勉といわれるが、この勤勉さは、日本における潜在的な仏教的思考によるとの考えが圧倒的である。世界の四大宗教といっても、モーゼの十戒に代表されるユダヤ教があって、そこからキリスト教が生まれ、そのあと、同じユダヤ教からイスラム教が生まれ、そのいずれもが一神教として、他の神、宗教を認めずに排他的であったのに対し、仏教は寛容の宗教といわれ、日本人の国民性に密着しやすかったようだ。
仏教論は専門家に委ねるとしても、私たちの日常生活に浸透している仏教的思考は、生存中に悪さをすれば「地獄」に落ち、「良い行いをしていれば極楽にいける」という、極楽は自分の心の中にあると考えることであり、輪廻(りんね・前の世での善悪の行為によって今日の自分がある)によって、来世のために今を精一杯に生きるという考えを持つ。他人の生き方も認め、自分の在り方を問う宗教ゆえに、寛容の宗教といわれるのだが、こうした考えから、働くことは自分のためという意識を作り出す。
仏教の一宗派である禅は、日本人を知る上で貴重な手懸かりといわれ、外国人の関心が高まっているが、その中にもこんな話がある。
鎌倉時代末期、刀匠として名高い正宗の刀と、弟子の村正の刀とで、どちらの斬れ味が鋭いか実験することになった。
ちなみに、正宗の刀は芸術性の高い作刀で後世の刀鍛冶に大きな影響を与えたといわれ、どういうわけか正宗の作った刀は無銘のものが多く、いまでも正宗という銘が入っている刀は稀で、短刀が数刀、それ以外はほぼ存在していない「幻の刀」といわれている。その為か正宗作と鑑定された刀はほとんどが国宝、もしくは重要文化財となっている。正宗は代々引き継がれその子孫は現在も鎌倉で刀鍛冶を営んでいる。
一方、村正にまつわる言い伝え、家康の祖父松平清康が家臣の安倍正豊に刺殺された短刀が村正、家康の父松平広忠が片目弥八によって殺害されたのも村正(岡崎領主古記)、家康の嫡子、松平信康が織田信長の命令で切腹させられたとき、介錯人の服部正成が腰に差していた刀も村正、家康夫人築山御前を小藪村で野中重政が殺害して斬った刀も村正、真田幸村が大阪夏の陣で家康の本陣を急襲して家康に投げつけた刀も村正という伝承。このように徳川家と対立する者には縁起物の刀として大事にされた。幕府転覆計画が露見して処刑された由比正雪が持っていた刀も村正で、徳川家にとっては好ましからざる刀、凶を呼ぶ不吉な「妖刀」として持つことが禁止されていた。
両者を見比べただけで、正宗と村正の評価が分ろうというものだが、不吉といわれる村正の刀の方が、正宗にも引けを取らない斬れ味を持つとされていた。
さて、両者の刀の斬れ味は如何にと、静かに流れる小川で実験することになった。小川の流れの中、刃先を川上に向けて刀を立てる。川上から木の葉を流すと、村正の刃先にふれた葉は見事に真っ二つに切れる。師匠の村正の方はと見れば、木の葉は、その刃先にふれようとした瞬間、木の葉は刀の威厳に怖れをなしたかのように、よけて流れてしまった(鈴木大拙「禅と日本文化」)。
正宗は鎌倉後期、村正は室町中期の刀匠だから時代が違う上に、両者の作風は全然違うのでこの話は単なる逸話、俗説の類に入るものだが、禅の真髄を表す話しとして、そして日本人の勤労観を著すために生まれた逸話のようである。
日本人の勤労観とは、仕事を通じて人格を高めることであり、作業者の人格が、仕事(製品)の中に生きるというものである。この思想は遥か遠い昔のものではなく今も脈々と受け継がれている。労働がもつ二面性、一つは、労働を提供して賃金を得るという「経済的側面」、一つは、労働を通じて人間関係の構築や人格の育成をはかり、仕事への「やり甲斐」を意識しつつ、人生の「生き甲斐」を醸成することにある。
正宗の刀は、正宗の人格を反映しているがゆえに、木の葉は作者の人格に畏怖を抱いて避けてしまったということか。反対に人格で劣る村正の刀には、恐れもせずにただその鋭い切れ味に身をゆだねたということなのだろう。
労働には「経済的側面」と「精神的側面」があり、こうした二つの性格を持っているとき、労働組合が、精神的側面を無視したり軽視して、「カネ」だけを求める「経済的側面」のみに執着したとき、組合員から「やり甲斐」や「生き甲斐」を奪い取ってしまうことになる。
21世紀は、「やり甲斐」や「生き甲斐」を重視する時代なのだ。それこそが多くの労働組合が掲げる「真」の「豊かさ」なのである。
(2011年8月13日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)



