鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.47 ジョージ・オーウェルの「絞首刑」と山本常朝の「葉隠れ」
鈴木 勝利 顧問
2011/11/15
 今年も多くの人々の命を失った太平洋戦争、66回目の8月15日終戦の日を迎えた。

 人は自分の命が間違いなく絶たれると、はっきりしたときの気持ちとはどういうものなのだろうか。「武士道というは死ぬことと見つけたり」と戦時中も盛んに言われ、三島由紀夫も心酔したという江戸時代の「葉隠れ(はがくれ)」は、肥前国鍋島藩藩士、山本常朝が著わした「武士としての心得」をいう。有名な一節は、もちろん「武士道というは…」であるが、そのほかにも、「朝毎に懈怠(けたい)なく死して置くべし(聞書第11)」と、「死ぬことを恐れずに無我夢中で行動している中にこそ忠義がある」というように、「死」と隣り合わせの考え方が多くみられる。明治の雄、同郷の大隈重信はこの「葉隠れ」の考えを批判している。後に新戸部稲造も武士道を説くが、その武士道とも大幅に異なっていると指摘もされている。

 もともとこの「葉隠れ」という言葉は西行法師(1118年~1190年)の「山家集」の「恋」の由来している。その歌は、「(寄残花恋)残りの花に寄する恋 葉隠れに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に逢う心地する」というもので、解釈すれば、「葉の陰に散り残っている花を見つけたときには、ずっとお逢いしたいと恋心を忍んできた貴方に逢ったような気持ちがいたします」というもので、およそ「死」とは無縁な話からなのである。今から六十数年前の悲惨な第二次世界大戦(太平洋戦争)で、日本の若者たちは、特攻隊として「玉砕」の美名のもと華々しく死ぬことを強制された。その死に「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠れの一説を権力者が悪用した。よく解らないが日本人の死生観には「美しい死」があるらしい。心の奥にある「美しい死」という死生観が特攻隊員の「自殺的行為」を正当化させていったともいわれる。同時に、「生き恥をさらすな」という強制は、捕虜をよしとしないで突撃による戦死、玉砕を選択させた。いずれもが、本人の意思ではなく、上官への服従を叩き込まれ、かつ抵抗する意思をも禁止された軍隊の特殊性がなせるものであった。果たして本人の意思はどうであったのか。皆喜んで死地に赴いたとは到底思えない。

 1903年にイギリス植民地時代のインドで、後に作家でありジャーナリストになるジョージ・オ-ウェルが生まれる。父はイギリス人でインドの高等文官であり、アヘンの栽培と販売をしていた。曽祖父はジャマイカの不在地主、祖父は聖職者で上流階級に属していた。1922年にはビルマに渡りインド警察の訓練所に入所、5年間各地で勤務した。1936年には、内戦中のスペインで、反フランコ戦線のPOUM(マルクス主義者統一労働党)伍長として参戦、現地でソ連の援助を受けた共産党の欺瞞を目の当たりにし義憤を抱いていく。こうした経験が、理想郷ユートピアの正反対の社会である「阻害された場所」として、極端な管理社会で、基本的人権を抑圧する社会(共産党支配の独裁国家、現在の中国や北朝鮮をみれば合点がいく)を批判した寓話小説「動物農場」(1945年)や、名作といわれる「1984年」(1949年)を発表することになる(翌1950年46歳の若さで死去)。

 「動物農場」は飲んだくれの農場主を追い出して、理想的な農場を築こうとした動物たちが、新らしく指導者に選んだ豚が独裁者となったため、農場が恐怖政治におかれていく様を描いたもので、20世紀前半、ソ連に誕生した共産主義やスターリン主義を痛烈に批判した物語である。また、「1984年」では、核戦争を経て世界が三超大国に分割されている中、大国の一つオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる国民生活が統制され国民が窮乏生活に陥っていた。物語の最後はきわめて皮肉に満ちたもので、主人公が密告によって思想警察の拷問を受ける。拷問は政府機関「愛情省」が行うという皮肉があり、拷問によって自らの信念を打ち砕かれた主人公は、党の思想を受け入れ、銃殺される日を思いながら「心から党を愛する」ようになるという物語である。

 とくに「1984年」は、中国新幹線の事故をめぐる中国共産党の言論統制のように、共産党支配の独裁政治のあり様を予見したもので、当時、ソ連に誕生した共産党政権の本質を世にあらわし名作の評判を得た小説であった。

 「死生観」という意味では、このジョージ・オーウェルの短編「絞首刑」に絞首台に連れて行かれる死刑囚が描かれている。「足を踏み出すたびに、彼の筋肉はすべるように優美に動き、頭のてっぺんのひとふさの巻き毛は上下に踊り、ぬれた砂利道の上に、はんで押したように彼の足跡がついた。そして、たった一度、彼は、水たまりに踏み込むまいとして、両側から看守に肩をおさえられながらも、ちょっと脇へ退(の)いた。」

 植民地ビルマで統治者側の警官としてイギリス人の作者が見た情景ということになるのだが、連行されるビルマ人の死刑囚にとって、あと数歩の命というのは明らかな事実として分かっているのである。間違いなく「死ぬ」にもかかわらず、水たまりをよけるのである。死ぬ人間にとって、足の汚れなどどうでもよいように見えるが、人間というのは、死ぬことが間違いなく分かっていても、死ぬ瞬間までは、無意識に生きようとしているのである。水たまりをよける、その情景に、生命への強烈な意識を感じるのだが、それだけ価値のある命、その命が息づく人生というものを、どう送るのかが非常に大事に思える。人間はいつか、間違いなく死ぬのだが、その死への不安は隠せぬものだ。死への不安があるから、中年になると健康への心遣いが細かくなってくるのである。

 さて、「武士道とは死ぬことと見つけたり」と従容として死に向かわせられた日本の若者と、「絞首台」の寸前まで、生きる意志を持つビルマの囚人。その違いを単に「死生観の違い」の一言で片付けることはできない。「死」に対する恐怖心に民族の違いはない。同じであるがゆえに、「特攻隊」を成功させるためには、「日本人の死生観は違う」と強制するしかなかったのだろう。

 最後に希代の彫刻家・平櫛田中さん(1872年~1979年・岡山県生まれ。107歳の長命)のこんな話を紹介しよう。

 平櫛さんが八十九歳のとき、伊勢の大神宮から神馬八体を頼まれ、「あの年で八体とはね」という陰口の中で、平櫛さんは、「私は老人で急ぎ仕事はできないが、一年に一体づつ納めて、八年目に八体を完納しよう」と答え、その言葉どおり九十八歳で神馬八体を完納した。

 依頼を受けた八十九歳の平櫛さん、一年に一体、八年後までの自分の命に、何一つ疑うことなく人生を送る姿勢。日本人の死生観とは、「美しく死に急ぐ」ことではなく、例え死ぬ覚悟をもったにしても、「その瞬間まで生きようとする気力がある」からこそ、「死ぬ覚悟が不可能を可能にする」のではないかと思えて仕方ない。

(2011年8月15日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)