鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.49 チョッとした間違い?
鈴木 勝利 顧問
2012/01/15
 ~万引きとカンニング~

 「歌は世につれ 世は歌につれ」とは、世情の変化を表した表現であるが、年齢のせいとは思いたくないが、若い世代が好むメロディーをどうしても好きにはなれない。

 年寄りのひがみからか、若い歌手の発音にさえ口を挟みたくなる。

 「巻き舌」が多く、濁音の発音に至っては汚さだけが耳に残ってしまう。

 「○○が」は「が」であって、「ガッ」ではない。

 どちらかと言えば年配の俳優に耳に心地よい発音をする人が多いと思うのも寄る年波のせいか。

 時代の変化は人々の心にも奥深くしみこんでいる。

 最近の統計によれば万引きで捕まる高齢者が増加しているという。

 動機は経済的な理由もあるのだが、一人暮らしの寂しさのせいとも言う。

 一人暮らしで寂しいからといって万引きが許されるわけもないし、高齢化社会の宿命と割り切るわけにもいかない。

 この万引きという犯罪にも、「万引きは世につれ 世は万引きにつれ」があるらしい。

 万引きの動機に世相が反映しているからである。

 万引きが青少年犯罪の典型であった頃から世相を反映してきた。

 戦後の貧しい時代には、万引きして捕まった少年たちの動機は、単純に「欲しいから」であった。

 それが高度成長期に入って国民生活が向上してくると、動機は「もうひとつ欲しい」に変わる。

 そして近年は、「面白いから」万引きするという。そこには罪の意識もなく、まさしくゲーム時代の副産物なのだろうか。

 店側で犯人を捕まえて動機を尋ねると、ほとんどの人はわずかの金額であり、財布も持っている。

 「それなのになぜ?」には、「出来心」と異口同音に答える。

 この「出来心」がどのようにして生まれるのか良く分からないが、「万引き」を「犯罪」とは意識していないことによって生まれているようだ。

 もっと突き詰めれば、他の重犯罪と同じように「悪いことで犯罪になる」とは意識していない。

 「チョッとした間違い」程度の軽い認識なのだろう。

 2011年春、大学の入学試験に携帯電話を使ったカンニングが話題になった。

 テレビに出る自称識者も、自分にも覚えがあるせいか、携帯電話を使う「IT時代」のカンニングの手法に時間を費やしたり、あるいはまた、「大学の管理の未熟さのせい」との主張が多い。

 そこに「カンニング」を犯罪として捉える姿勢は皆無だ。精々「真面目に受験している人との比較」で非難している程度で、「誰もが経験するチョッとした間違い」と認識しているがゆえに、「本人も反省しているし、将来があるから大目に見よう」という結論になっていく。

 商品の陳列棚に並んである商品を見て、欲しくなって手を伸ばし、手に提げた店用のかごに入れれば普通の「買い物」であるのに、チョッとした出来心で、私物の手提げに入れてしまい、うまくレジを通れば「もうけた」「してやったり」となる。

 私物の手提げに入れる瞬間と、カンニングのために携帯メールの「送信ボタン」を押す瞬間こそが、犯罪になるかならないかの境界線なのだ。

 その瞬間に思いとどまれば、いくら準備していても、心にやましい気持ちがあっても問題にはならない。

 瞬間の判断が人生を左右してしまう。憎しみのあまり、つい相手を殴って怪我を負わせてしまえば傷害罪になるし、思い止どまればただの憎悪で終わる。

 しかし、自称コメンティターの主張には乱暴なものが多い。

 「携帯メール」の発信者の特定に警察の手を借りたのは「学園自治の原則に反する」、あるいは「大学の監督ミスを覆い隠すための告訴」に至っては何おか言わんやである。

 世はこれだけITが発達している中で、大学だけで真相が究明できるほど簡単ではない。

 もし通信会社が民間の大学からの要請でIPアドレスを明らかにしたり、通信記録を教えたとすれば、その方が問題になってしまう。

 それにしても、これだけ世間を騒がせた当事者の今後の人生はどうなってしまうのだろうか。

 軽々しく身から出た錆と割り切る自信もないし、かといって不問に付すことにも躊躇いがある。

 取り返しがつかないのは、「送信ボタン」を押してしまった瞬間の自身の行為と同じように、メディアがこれだけ取り上げて騒いだことであり、そのメディアと同様に、出演して大騒ぎした挙句に「本人のためにそっとしておくべき」と述べる厚顔なコメンティターの責任もまた問われてもいいように思える。

 放送における公共の定義も、放送料金を徴収しているからといってNHKだけが公共放送なのではない。

 電波そのものが公共物なのであり、その公共物である電波を利用している限り、民法もまた公共放送なのである。

 かつて新聞にしろ、ラジオ、テレビにしろ、公共性を要求されるメディアには不偏不党が絶対条件であった。

 それがある時期に、「選挙における自民党の敗北はわれわれの番組編集の賜物」と豪語して責任を追及された民放の局長発言を思い出す。

 また、確か久米弘を起用して、私見を発言しても許される番組が登場し、以降、各局とも事の真偽の別なく、それぞれが思いのたけを好き勝手に述べ合う今のスタイルになってしまった。

 情報の量も質も劣る一般の読者や視聴者が、発言の真意を見分けることもできず、ひたすら番組に翻弄されるのは避けられない時代になってしまったのである。

 「このくらいなら」「このくらいなら」と許しているうちに、メディアにがんじがらめにされてしまった国民は、興味深々見ている番組を通じて、「送信ボタン」を押してしまった若き青年を暗黒の未来に追いやったかもしれないのである。

 そんな中でも、組合のリーダーはこれだけは気をつけておかなければならない。

 メディアを通じて流されるあらゆる事象といってもいいと思うが、絶えずそこに登場する人間の心情に思いをいたし、表面だけを見るのはなく、心の眼で「ことの真実を観る」よう心がけていかなければならない。

 テレビは事実を映すことはできるが、真実を映しているわけではないのである。

(2012年1月10日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)