鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.51 人間の知恵の出し方
鈴木 勝利 顧問
2012/03/15
 ~パリ昔話~

 もうかなり昔になるが、当時、新婚旅行でヨーロッパから帰った友人は、やはり花の都パリに感動したらしく、とくにベルサイユ宮殿の豪華さに驚嘆したという。

 昔のパリは、ヨーロッパいちの過密都市で、共同トイレも少なく、「パリの臭気はカネでは片づかない」とさえ言われていた。

 この臭気から逃れるために、ルイ十四世はパリから離れたベルサイユに宮殿を建てたわけだが、千人の王侯貴族と四千人の侍女、下僕が居住したという。

 もともとヨーロッパでは、屎尿(しにょう)の処分は頭痛のタネであった。

 これは農耕にも関係するのだが、日本と違って、農耕に人間の屎尿は使用しなかった。

 イギリスの記録によれば、テームズ河の橋の上に、有料トイレが百三十八件も開業している。

 河川沿いに共同トイレが多いのは、そのまま川に流しているからだが、1347年クリミア半島からイタリアに持ち込まれた黒死病(現在の腺ペスト)が、ヨーロッパ全土を覆い、実に総人口の四分の一にあたる二千五百万人が死亡したことを契機に、ブリッジの有料トイレは廃止される。

 そして便壷の大きい共同トイレが登場するが、夜中にいちいち外出したくない市民は、小さな便器を用意し、日没や明け方になると、二階や三階から窓越しに、街路にぶちまける。

 これが、憧れのパリの前身だが、その不衛生さが、のちに下水道を完備させる発端になったというから面白い。

 日本の農耕も、当初は、緑の草を敷く緑肥や厩の下草などを使っていたが、そのうち人糞肥料を考えつく。

 時の権力者の増税(年貢)に対応して、収穫を少しでも多くしようと人糞を畑に還元させる苦肉の策であったらしい。

 「それをやったおかげで土壌の肥料分が急に高まり、イネの肥料吸収が高まり、イネの実がどんどん丸く大きくなって、そして一本の穂になる数がとうとう最後には二百七十八粒という記録に達した」(樋口清之「亡びない日本人」)。

 なんとも先人たちの知恵に驚くが、こうして日本では、農家の人々が街の家々を訪ね、お金を払って汲み取りをしていた。屎尿の処分に困らぬ日本では、当然のように下水道、つまり水洗トイレの必要性は生まれなかったのである。

 世の中の進歩は、人間社会の必要性に迫られて成し遂げられることが多い。

 石畳が発達しているため、土に吸収させることもできず、河にも流せず、街中が臭気と不衛生の中にあったヨーロッパの都市ゆえに、水洗トイレが生まれたともいえるのだから、現在、単に水洗トイレの普及率だけを見て、世界を発展国と未開発国とに区分けするものどうかと思ったりする。

 それでは下水道に代わって上水道はどうであったかと眼を転じると、日本の都市の飲み水の確保は神田上水が最初といわれるが、もっとも大がかりだったのが、承応(じょうおう)二年の玉川上水で、奥多摩村から実に四十三キロの長さをもっている。

 これは、有名なローマの水道を上回る世界でもっとも寿命の長い(二百四十年間)水道の水といわれている。

 ちなみに承応年間は1652年~1654年のわずか5年間で、徳川家綱の代であり、江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水の開削が計画された。

 工事の着工は1653年で、現在の青梅に近い羽村(はむら)から四谷までの計画であった。

 しかし、この間の標高差は百メートルしかなく、加えて土地は関東ローム層のために水が吸い込まれるなど取水工事は難航を極め計画の変更が行われたあと、約半年で完成、1654年に江戸への通水が開始された。

 工事の途中では幕府の資金が底をつき、工事を担当した玉川兄弟は家を売って費用に充てたという(正確な記録は残っていないようだが、玉川上水の名称の由来になったのではと考えられている)。

 この上水道の一部区間は、現在でも東京都の現役の水道施設として活用されている。

 その後の新田開発によって、分水した多くの用水路が開削、武蔵野の農地への水が供給され、農業生産にも大いに貢献している。

 屎尿処理が水洗トイレの普及に関係し、必要性を感じていなかった日本が、いつの間にかウォシュレットなる新製品を開発したのも面白い出来事である。

 こうして考えてみると、極端なナショナリズムになる必要はないが、日本民族についても、一時期流行したように、物真似民族などと卑下することなく、大いに誇りを持って生きていく自信が沸いてくるのである。

 (2012年3月10日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)