鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.52 倒されし 竹はいつしか立ち直り 倒せし雪は消えてなくなる
鈴木 勝利 顧問
2012/04/15
 ~心の持ち方で人生は変わる?~

 あるスキーの達人?が面白い話をしている。スキー場で滑っていて、前方に木が見えてくると、初心者の90%以上の人が「アッ、ぶつかるぶつかる」と叫んで、木の方ばかりを見ていて、結局は木と衝突する破目になるという。

 これには合理的な理由があって、木を見れば見るほど、体は木のほう向き、スキーも体にしたがって滑っていくから衝突するのは当然で、木から眼をそらせば体の向きも変わり衝突は免れるのだが、初心者のむなしさ、ぶつかりたくないからどうしても木を見てしまうそうだ。

 これは物理的な意味の話だが、心理的にも同様の話は多い。

 アメリカのマンチェスター大学の統計調査によれば、人生の成功者と失敗者に面談してみると、成功者は常に成功について考えており、失敗者は常に失敗について考えていたという統計が出ている。

 人間の心理は不思議なもので、誰しもがうまくいった場合と失敗した場合を想定するのだが、その場合、考えるといってもただの思考は潜在的な記憶にはならない。

 強い情動を伴う思考のみが潜在的な記憶になるというから、成功と失敗の両方を考えていれば、やはり失敗のほうが情動が強いから失敗のほうが記憶に残ってしまう。

 アメリカの哲人エマーソンも、ローマ皇帝で哲学者のマルクス・アウレリウスも、「人みなすべてその思いの如きものになる」と、この潜在意識の重要性を指摘しているが、仏教ではこれを「阿頼耶識(アラヤシキ)」と呼ぶ。

 「ラヤ」というのは、サンスクリット語(古代インド語)で「蔵」を意味する(余談だが、ヒマラヤ山脈とは雪を意味する「ヒマ」と蔵を意味する「ラヤ」で、雪の蔵=雪に覆われた山という意味で名づけられた)。

 アラヤシキとは「蓄える意識」ということだが、人間が何かを考え、そのうちの強い情動を伴った思考のみが蓄えられ、それがその人の運命や肉体を左右するという考え方である。

 はじめの思考を「因」、アラヤシキを「縁」、結果(運命)を「果」とよび、この組合せによって「因果」(原因があって結果がある)、「因縁」(原因と結果をつなぐのが縁)、「縁起(事物の由来を意味することから社寺や宝物の由来を指し、そして由来から『前兆』の意味に用い、『縁起がいい』などという)」とかいう言葉が生まれた。

 以前、メンタル・ヘルスの権威ともいうべき方と談笑する機会を得たが、現代医学の弱点は、心のゆがみが精神のみならず肉体にまで影響を与えることを軽視していることや、したがって、心のあるべき姿を追及することが重要であることで意見が一致した。

 心のあるべき姿とは、とどのつまりが、親子関係にしろ家庭環境にしろ、職場の人間関係にしろ、心の持ち方の問題、言い換えればアラヤシキにどういう意識を蓄えられるかに帰結するようだ。

 だから嫌なことを忘れられる人は、うらやましい限りなのだが、平凡なわれわれは嫌なことを忘れようとしてもなかなか忘れられない。

 むしろ忘れようと意識すれば意識するほど記憶に残ってしまう。

 蓄積すべき意識の中身というか、質といってもいいと思うが、その質をいかに高めるかという自律訓練が必要のようだ。

 そうした自律訓練を経て、余裕ある心、協調性、順応性、寛容などが培われ、高潔な人格がつくられていくに違いない。

 心の持ち方で人生を変えられることがわかる。

 「蛙は自分が水の中に飛び込んだ勢いで浮かび上がるが、落ちるのが嫌だからと後ろ向きに落ちると浮き上がれない」のだから、同じ落ちるのなら自分で飛び込むほうがいいと考えて、日常の生活を送るようにするのも無駄にはならないだろう。

 そう考えたからといって、過去ばかりを振り返って反省ばかりをしているわけにもいかない。

 過去は自らの判断で選択した道である。

 己の選択に過ちがあろうはずはない、くらいの自信をもちつつ修練の努力さえすれば、「倒されし 竹はいつしか立ち直り 倒せし雪は消えてなくなる」の人生が待っている気がする。

 (2011年10月11日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)