鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.53 断腸の思い
鈴木 勝利 顧問
2012/05/15
 ~強まる幼児虐待~

 親が子を慈しむ心情というのは、人でも動物でも同じようだ。

 中国の古い話だが、ある猟師が河を遡って狩に出かけ、猿の子どもを生け獲りにした。

 その獲物を小舟に乗せ帰路の途中、ふと河岸に眼をやると一匹の猿が悲しげな声を上げ、舟と平行して川下へと走っている。

 その声は、お腹の底からしぼりだすような悲痛とも、哀願とも、怨念ともつかぬ異様な叫びであった。

 やがて河口に近づいたのであろう、川幅が徐々に広がってくると、それまでためらいをみせていた親猿は、意を決したかのように河へ飛び込み、舟をめがけて泳ぎ始めた。

 川の流れに、途中何度も何度も溺れそうになりながら、やっと舟にたどり着いて猟師が引き上げたとき、精根を使い果たした猿は、息をひきとった。

 捕らえられていた小猿が泣き叫んだのはもちろんだが、家へ帰った猟師がその親猿のお腹をあけたとき、母親猿の腸はズタズタにちぎれていた。

 「断腸の思い」という言葉は、この話しから生まれるのだが、腸が断たれるまで子を思う親の心情が思いやられて涙を誘う。

 動物とて親子の情愛は深いものだが、人間というのは「考える」ことができるがゆえに、時には動物より劣る者がでる。

 日本の家族制度が封建的とされ、欧米流の個人主義が持て囃されているが、個人主義はややもすると家族という縦の関係よりも横の関係を重視しがちになる。

 父や母は、父であり母であることよりも、一人の人間として男と女であることを優先し、世代ごとの境界を明確にもつことになる。

 子どもを真ん中に、川の字になって親子が寝ることは考えられない。

 子どもは一個の独立した人間として個室が与えられ、自立心を養う。

 父と母は、夫と妻として生活を続ける。

 自分たちの人生より子どもを優先させることはない。

 子どもがむずかれば、添い寝ではなく冷たく突き放すことが「子どもの自立のため」と考える。

 そしてそれこそが日本の封建時代の終焉であり、民主時代の幕開けともてはやされた。

 アメリカでは、親による幼児虐待が社会問題になって久しい。

 1978年というかなり古い統計調査でも、親による幼児虐待は年間五百万人を超えていたから、現在の数字は実に恐ろしい水準に達しているに違いない。

 殴る蹴るの肉体的虐待、近親相姦などの性的虐待が多い。

 虐待をした親のうち、精神異常者はわずか五パーセントにも満たない。

 ほとんどが正常な、まったく普通の親の虐待なのである。

 人間がこの世に生をうけて、死ぬまで一個の人間として尊重されることは素晴らしいことである。

 しかし、子を持った時の親は、男と女よりも、夫と妻よりも、父であり母であることを優先させねばならない。

 男と女をすべてに優先させれば、時には二人にとって、子どもが邪魔であったり足手まといになるのは当然である。

 日本社会にも幼児虐待の風潮が強まっている。

 それに警鐘が鳴らされているが、その根は限りなく深いような気がしてならない。

 親にとって子供とは何なのか。そこから教育は始まる。

(2012年3月12日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)