鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.54 口に出すべきか出さざるべきか
鈴木 勝利 顧問
2012/06/15
 ~アメリカのコミュニケーションと日本人の美意識~

 昔、中国に皇帝が寵愛していた妃がいた。彼女が病に倒れ余命いくばくもない頃、皇帝が見舞いに行こうとしたが、彼女は頑なまでに見舞いを固辞する。相思相愛の二人を知っている側仕えの侍女が、妃に皇帝の見舞いを受けるように進言すると、彼女はこう答えた。「皇帝陛下が愛した私は、健康であった私であり、今、こうして病床に臥した私に逢えば、皇帝の寵愛を失ってしまうに違いない。」

 こうして彼女は、最愛の皇帝に逢わぬまま、幸せであった過去の日々を胸に抱きながら世を去ってしまうのだが、この話が今も語り継がれるのは、読む人にいろいろのことを考えさせるからに違いない。心から愛している女性が、あとわずかの命しかないこと知りながら、見舞いに行くこともできずに死の知らせを聞いた皇帝の気持ちは如何ばかりであったろうか。

 しかし、それよりも、間違いなくやってくる死の不安の中で、愛する人に逢いたいという慕情と、逢えば寵愛を失うかもしれないという不安との葛藤に苛まれる妃の心情のほうが心を打つ。男の身勝手な言い分からいえば、寵愛を失うかもしれないと見舞いを固辞する女性ゆえに、病の床でも容色は衰えることもなく、むしろ美しくなっているに違いないから、逢えばいいのにと思うのだが、所詮は女性の気持ちを真から分かることはできないのかもしれない。


 欧米流にいえば、愛しているなら「愛している」と言わねばならないし、相手に分からせなければお互いに安心できないのだから、逢った上で言葉をもって言うべきだし、逢うことすら避ける妃の気持ちは理解できないとなる。
 もちろん、自分の思いを相手に伝える手段は言葉しかないし、その思いをどのように言葉で表現するかがコミュケーションの良し悪しになる。アメリカの映画で夫婦が何かにつけて相手と「愛している」と会話する場面は、どうも日本人には向いていないと思ってしまう。

 言葉に表すという行為は、なにも恋愛に限ったことではない。組織や他人のために一生懸命に努力しながら、決して表面には出さずに黙々としている方が好ましいような気もする。

 功を焦る人には真似できないことだが、人の功績の陰には、必ずこうした人々がいる。そして社会的な栄誉には恵まれなくても、人からは厚い信頼を得ている。自分の努力や能力を、他人に認めさせないと気のすまない人から見れば、笑止なことかもしれないが、人徳とはまさにこういうことをいうのだろう。


 話は少し横道にそれたが、本稿でこの中国の話を書いたのは、最近話題になっている教育について思いをめぐらせていたら、どうも俗にいう教育ママやパパの像が、この妃の行為とはまったく正反対であると思ったからである。
 父親や母親にとって、子どもは言葉に言い尽くせぬ慈しみの対象であるから、その親の気持ちや努力していることを、何としても子どもにわかってほしいと思う。「お母さんはあなたのことをこれほど愛しているのよ」、「あなたのためにここまで努力しているのよ」と。


 これだけ思いやり、これだけの努力をあなたに捧げている。それを子供に分かってもらわなければ自分がいたたまれない。そして、わが子よ、このお母さんとお父さんの期待に応えて欲しい。子どもにとって、それがどんなに負担になるかも考えずに、それを口にした瞬間、それは思いやりではなくなっていることにも気づかずに、である。


 自分の思いを口にしなかった妃が正しかったのか、いたいけな子どもに対しても口にする親が正しいのか、いや、どちらが正しいなどとは決められないような気もするが、しかし、人によって違うと思うが、自分は自分なりの努力をしさえすれば、あえて口に出すこともなく、ひっそりと見守ることのほうが日本人の美意識にふさわしいと思うのだが…。


(2012年3月12日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)