鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.57 仲間はずれ
鈴木 勝利 顧問
2012/09/15
 ~わが実践的教育論[3]~

 下の娘がたしか小学校二~三年生の頃だったように記憶している。休日で所用をすませて帰宅の途中、女の子ばかり数名で縄跳びを始めようとしているところにぶつかった。縄を持つもの、飛ぶものがサッと決まって、いよいよ始まろうというのに、わが娘だけがポツンと佇んでいる。どうやら仲間に入れてもらえなかったらしく、泣きべそをかきながら、それでもなお未練がましくそこを離れようとしない。
 子ども遊びに口を挟むこともできず、知らん振りをして帰宅したものの、親としては憤懣やり方なく、しばらくして娘が帰ってくると、「意地悪されているのにものほしそうに立ってるんじゃないの、相手にしないで帰ってこい」と怒鳴りつける。遊びで悲しみを味わい、家に帰って慰められるどころか、怒鳴られた娘の気持ちはどうなってしまうのか、などという慮りは私にはなかった。
 数日後、今度は妻が同じような光景にぶつかったのだが、私は黙っていた。「どうしても辛くなったら、そのときに相談しなさい」とだけ言っておいたが、彼女は二度も三度も仲間はずれにされても、やはり一緒に遊びたかったのである。仲間はずれは悲しいに違いないが、親の私が感じた「みじめでみっともない」のとは違っているのである。私が怒鳴ったのは、子ども感情を親が勝手に推し測り、きっとさびしくみじめなのだと決めつけた誤りから始まったのであり、みっともないのは、子どもではなく親の見栄みたいなものであったようだ。
 仲間はずれの悲しさを味わうだけ味わうがいい。子ども世界のことに、世の中の親の常識を押しつけることはないのだ。それに耐えられそうもなくなったら、最後に手を差し伸べればよいのだと割り切ることにした。

 親が子に与える躾と過保護の境界は難しい。兄弟ケンカが始まりかければ、親がすぐに仲裁に入ってケンカを未然に防ぐ。仲良し兄弟も結構だが、兄弟ケンカを通じて培われる「自分の考えが認められない」こと、「相手の気持ちを考えなければならない」ことも知らないで成人を迎えてしまう。

 最近になって中国の一人っ子政策が、他人への思いやりを持てない成人を大量に世に送り出している弊害に気づき、中国の新たな悩みとして深刻な社会問題になりつつある。

 娘が中学生になって先生の家庭訪問を受けたとき、成績のことはともかく、先生の口から娘がクラスで一番思いやりがあるとほめられた。いまでいう、「いじめ」られて登校も途絶えがちな生徒が、ひとり、娘の言うことだけには耳をかたむけ、何かと相談に乗ってくれて、先生も助かっている、という話を聞いたとき、私の脳裏にふと、仲間はずれにされて泣きべそをかいていた娘の顔がよぎった。

 誰からも慰めてもらえずに、そして声を上げて泣くわけにもいかず、ひたすら我慢してベソをかいていた娘の顔は、今思えば意外に美しかったような気がする。

(2012年4月20日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)