鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.60 モーツアルトとニュートン~わが実践的教育論(完)~
2012/12/14
 
 子どもを身ごもると、親というのは生まれてくる子にいろいろと期待をかける。やさしくて勇気があり、丈夫で頭が良い子であって欲しいと願う。ところが生まれて少したつと、やさしくて勇気があって丈夫というのは忘れ、頭の良い子という願望だけが残る。

 たしか次女が小学生一年のときであったと思う。採点が終わったテストを渡されたので見ると、鮮やかな×印が目に入った。そこには時計の針が三時を指している絵が描かれ、「つぎのじかんはなんじですか」の問いがつけられている。回答欄には四時と記入してあるから、間違いなく×なのである。時計の見方のテストのようで、他にも同様の問題が並んでいるからすべてに×印がついている。難しい算数の問題なら、親譲りと放っておくのだが、ふだんは時計が分かる娘であったから、なぜ四時なのかを問うと彼女は答えていわく「絵は三時だけど、次の時間というから、三時の次は四時と思った」。私は拍手喝采した。この傑作な迷答弁にも一理あって、正確にいえばこの問題の問いは、「次の絵の時間は何時ですか」でなければならない。それを「次の時間は」にすれば四時という答えも成り立つ。しかし、常識からいえば、やはり三時が正解なのだが、この常識の判断というのは必ずしも子どもには通用しないこともある。

 駅で切符を買うのに、「○○へ行くので○○まで切符を一枚」などと正確には言わずに、「○○」という行き先さえ言えば通用する(年齢が分かってしまうが、自動券売機がない時代の話である)。しかし、それはあくまで大人社会の常識であり、子どもの世界と一致するものばかりではない。名作「星の王子さま」も、子ども眼と大人の眼の違いを指摘した作品だが、わが娘も不思議な子と妙に感心したものだった。「ひょっとすると、スケールの大きい娘になるのでは」と、親バカよろしく大いなる期待をかける反面、「これでは一流校はムリ」と早くもあきらめることにした。

 親として子どもへの期待を、過大なものとしてあきらめるのには勇気がいるが、それを避けると将来に禍根を残す。もともと人間の能力の評価は優劣で決めるものではない。モーツアルトとニュートンと、どちらが能力があったなどとは比較できるものではない。ニュートンがワルツを奏でるわけでもないし、モーツアルトが木からりんごの落ちる様を見て、万有引力を考えつくわけではない。二人が音楽と物理学のそれぞれの分野で、最大限の能力を発揮したのであって、二人ともが偉大なのである。

 娘には娘の才能があり、それを伸ばす環境をどう整え、どう助言してやるのか、そして精いっぱい努力させるか、親の責任とはそういうものだと思う。

 その娘もアメリカ留学を経て、ホームスティ宅の息子と結婚、二女の母となっている。世間で言う極めて平凡な家庭を営んである。しかし、それが世間で言う平凡な人生であっても、彼女にとっては、それがモーツアルトであり、ニュートンなのである。

 日本社会でも、企業の処遇が年功型から「成果主義」とか「能力主義」に変わりつつあるが、社員の能力評価も同じだ。与えられた仕事、一緒に仕事をする上長と同僚、その条件の中での評価であって、人間の能力の優劣決めることではない。人間は、時には仕事が変わり、あるいは上長や同僚が代わることで能力を発揮することがある。与えられた条件下での評価なのだから、条件が変われば評価も変わる可能性を持っているのだ。その評価は決して人間としての評価なのではない。それを間違えると、せっかくの「能力主義」の処遇制度も破綻してしまうのである。 

(2012年4月20日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)