二十四歳の男性が十七歳の少女に恋をした。三ヵ月後にそれぞれの両親に引き合わせ、八月に婚約した。
十一月に少女が妊娠していることを知り、翌年三月に結婚した。
一人の男と一人の女の恋の物語としては、どうということはない。平凡な話で、強いて言えば、彼女の年齢がずいぶんと若いということが珍しい程度であった。今から、二十年以上も前の大阪での「小さな恋の物語」であった。
ところが、この男性が高校の教師、少女が生徒いうことになると、話は変わってくる。大阪府の教育委員会は「教員と生徒の交際は、越えてはならない限界があり、慎重な配慮が必要である」として、彼を停職三ヵ月の懲戒処分にした。彼は「憲法で保障された結婚の自由、プライバシイーの権利の侵害」として、大阪府の人事委員会に不服を申立て、府人事委員会は彼の申立てを認め、処分の取り消しを命じた。
当時、この問題をめぐっては、さまざまな場所で賛否両論、熱い議論が交わされたことを今でも思い出す。十六歳になり、両親の承諾を得ての結婚であるから、民法にも違反していない。まさしく、法律的には何の落ち度もない正々堂々と結婚できるし、やましいこともない。二人の固い意志と勇気は、むしろ誇りにしてもよいのかもしれない。
私もかつて、小学生の頃に、担任の先生に淡い憧れを抱いた記憶がある。その先生が結婚すると聞いたとき、わけもなく涙がこぼれ、しばらく勉強が手につかなかったことがあったが、未熟な子供にとって、先生に対する尊敬や憧憬を恋と錯覚することが多いことを知っておかなければならない。
話は変わるが、今は話題にもならないが、学校の先生の組合である日教組の組合活動をめぐって賛否入り乱れた大いなる論争が交わされたこともある。当時の日教組では、「教師も労働者」という言葉が持て囃されていた。労働者であるから、勤務時間もきちんとして、要求が通らなければストライキもいとわない。法律的にもまったくそのとおりで理屈での反論がしにくい問題であった。しかし、そこに落とし穴がった。人間社会における、子どもの教育のあり方という視点が欠落していたことである。
生徒が何かを尋ねようと昼休みに職員室へ行って先生と話をしようとすると、「今は昼休みだからダメ」と一蹴されてしまう。
サンダルにGパン姿で、生徒に向かって「服装と礼儀をきちんとしよう」と、お説教をする先生。
もちろん、こうした先生は全部ではなく一部にしか過ぎないのだが、当時は「先生と生徒は友だちになることが民主的である」という考え方が流行っていた。そして生徒からは話のわかる先生とすこぶる評判がいいという。でもちょっと考えてみよう。私たちの社会生活を考えた場合、友だちになれば、相手に欠点があれば批判し、非難することも許される。先生が友だちなら、生徒から見て先生の欠点、それが生徒の幼さ、独りよがりであっても、欠点だと思えば生徒は友だちである先生を非難し、批判し、嘲笑することも許されることになる。礼儀もそっちのけになる。そもそも欠点がない人間はいないのだから、友だちである先生を、生徒が馬鹿にしたり、言うこと聞かなくても仕方がないことになってしまう。
先生の組合が、ある要求をして回答がなかったり、回答が不満な場合はストライキを行う。労働者としての当然の権利である。先生がストをしている時間、授業は自習ということになる。一般社会では、組合のストライキは大人の社会における常識として社会から認められている。しかし、教育現場では、そうした社会常識をまだ理解していない生徒の前で行われるところに問題がある。社会の仕組みを教わっていない生徒にとって、自分の先生が、要求が認められないからといって、ストだから授業をしないで自習にしてしまう現実に接すれば、「自分の思いを通す」ために、拗ねたりひがんだり、サボることがなぜいけないのかわからない。
世の中、法律は大事だが、法律は万能ではない。そこには、法律以前に「尊敬される」先生でなければならない。そう思えば、十七歳は立派な大人なんだからと年端もいかない生徒を妊娠させることなど、思いもよらぬことになるのである。
(2012年4月20日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)



