鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.64 子は、なぜカスガイになれるのか~骨肉の情(一)~
2013/04/15
 1985年6月6日、神奈川県川崎市でダンプカーにひかれた小学5年生の男の子が、輸血が必要になったのに、宗教団体「エホバの証人」の信者である両親が輸血を拒否、約5時間後に死亡した事件があった。この事件は、信者でない子供の生きる権利と親権の及ぶ範囲や親の承諾権、信仰の自由や医師の治療義務と裁量権などをめぐって法曹、宗教、医療の各界で大きな論争を引き起こした(詳細は2012年6月15日付j.unionホームページ「語り継ぐもの」(55))。

 人は死ぬために生きる。未来永劫生きつづけることはできない。それが運命(さだめ)とわかっていても、命が絶えることへの不安がつきまとう。

 人生で経験する多くの苦難は、死をもこえる不安や恐怖とはなりえない。それは人生の苦難が生きていく過程で生じるものゆえに克服や回復が可能であるのに対し、死は生きることそのものの終焉を意味するからである。

 一人の人間の一生は、こうした個人の不安や恐怖と同時に、周囲の人々にもさまざまな感慨を与える。とくに肉親の死別による情愛は測り知れない深遠さをもつ。肉親の突然の死に放つ父親の慟哭も聞いたし、自らを育んでくれた母親との別れに、悄然とする子どもたちも見てきた。子どもにとっての両親は、いずれ物心がつくことによって、自分より先に他界することは暗黙の了解にある。ある意味では、長寿を全うする限りにおいては、諦観の心境でその事実を迎えることは可能である。しかし、夫婦のようにどちらが先であるかが不確定なケースであったり、世代継続という人生の定めに反する、子が先立つケースの場合は、夢想だにし得ない事態として親の狼狽は隠せない。存在するものが失くなるのは、森羅万象あたりまえのこととして受け入れられるにもかかわらず、死だけは別なのである。

 泥棒を恐れるのは、盗られる物があるからで、身を浮浪におけば盗られるものがないから恐怖はないというが、この場合は、まだ肉体がそこに残っている。殺される恐怖がなければ物が盗られても財産がゼロになるだけである。しかし、子どもにとって両親がいることは、いつも意識しているわけではない。時には居ること自体がまったく当たり前のことであり、それで日常の生活を成り立たせている。財産のように在るものが失くなっても、ゼロという歯止めは存在するが、居る(存在する)こと自体が意識されていなければ、失意というマイナスは無限に続いてしまう。居ること(存在)自体を意識していないから、他界した現実を前に歯止めのない心痛に襲われ、「居なくなって知る親の恩」という後悔に苛まれる。人間の心情とはそういうもののようだ。

 ところが親にとって子どもはいつも存在感を与えてくれる。親とは、子どものために生きているともいえるのだ。それは、自分自身の死への不安を、自分の分身として心血を注いで育てることで、心の安らぎを求めようと懸命にあがいている姿なのかもしれない。だからこそ、もともと血縁のない夫婦をつなぎとめるカスガイにもなれるのである。

 もし神や仏が人間のためにいるのだとしたら、ひよっとして親というのは、仏門や神に帰依していたとしても、子どものためには仏にも神にも刃向かえるのではないだろうか。

 子どもために、凛(りん)として生きる親の姿は、子どもにとって深い尊敬と愛情を育んでいく糧になっていく。
 だからこそ、信ずる神の名によって輸血を拒否し、肉親を死に導くとしたら、それは人間のための宗教ではないし、人として許されない行為として非難されたのであろう。

(2012年4月20日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)